代償 - regret -



 恐る恐る扉を開けると、そこには身体を起こし、書類に目を通すゲアハルトがいた。横になっているとばかり思っていたアイリスは普段と変わらない様子で仕事をこなす彼につい顔を顰めてしまう。痛々しい包帯やガーゼが目立つその姿は明らかな怪我人であり、本来ならば絶対安静にしていなければならない状況のはずだ。いくら回復魔法で治癒したからといっても、決して魔法は万能ではないのだ。無理に動けば痛みが出てくるだけでなく、血だって滲むかもしれないのだ。
 こういうときぐらい、ちゃんと休んでくれたらいいのに。アイリスはそう思いつつ、扉を後ろ手に閉めるとそんな彼女の考えを知ってか知らずか、書類を片付けたゲアハルトの傍に歩み寄った。彼は書類を片付けると、近付いて来るアイリスに視線を向け、少しだけ目を細めて彼女を見た。


「……おかえり、と言うべきかな」


 言い辛そうに口にして、眉を下げてゲアハルトは笑った。その笑みにアイリスは顔をくしゃくしゃにして笑みを滲ませながら、小さくただいまと返事をする。彼が言い辛そうにしている理由は大方察していた。けれど、それを指摘することもなく、アイリスは戻って来たのだということを再度実感して、目頭を熱くする。
 言いたいことは山ほどあった。大丈夫だったのか、傷は痛まないのか。エルンストとは、どうなったのか。大体のことはヒルデガルトから聞かされてはいるものの、だからといって全てを理解したわけでも、納得したわけでもない。ゲアハルト自身に聞きたいことだってあったのだ。けれど、すぐにはそれを切り出すことは出来ず、アイリスは促されるまま、すぐ近くに引き寄せた椅子に腰かけた。


「お加減はどうですか?」
「この通り、いいとは言えないな」


 そう言ってゲアハルトは包帯が巻かれた腕を持ち上げる。恐らく、シーツで見えない足腰にも包帯が巻かれているのだろう。余程、激しい戦闘だったことが窺え、今も顔色が悪いところを見ると早く用事を済ませて出て行くべきだろうと思う。しかし、自分がいなくなればまたすぐに書類に目を通すことは明らかであり、それぐらいは想像に難くないのだから、せめてもう少し体調が回復するまで書類を渡さなければいいのにと思ってしまう。
 無論、司令官であるゲアハルトが目を通す必要があるものだからこそ手渡されているのだろうとは思う。彼の判断が遅れれば、それだけベルンシュタインに被害が出る上に帝国軍に遅れを取ることになるのだ。そのことが分かっているからこそ、口に出すことが出来ないのだが、それが何とも言えず悔しくてならなかった。
 全ての事柄をゲアハルトだけが負わなくていいようになればいいと思う。だが、容易でないことは考えずとも分かることであり、だからこそ、自分がそうなることが出来れば、と――ゲアハルトを支えることが出来るぐらいの実力が付けることができればいいのにとは思わずにはいられなかった。


「アイリスは……少し痩せたな」


 目を細めて僅かに眉を寄せるゲアハルトの手が伸びて来る。けれど、指先が頬に触れる前に彼は視線を伏せた。しかし、躊躇う素振りを見せた後、少し冷たい指先が頬に触れた。ゆっくりと彼の手が頬を包み、掌に巻かれた痛々しい包帯の感触が触れたそこから伝わって来る。どこか苦しげな様子にも見えるゲアハルトにアイリスは気分が悪いのかと不安になるも、見ているとどうやらそういうことでもないらしい。何か思うところがあるのかもしれない――そう思いながら、無事を確認するかのように頬に触れ、見つめて来る彼にアイリスは居心地の悪さを感じてしまう。
 今の彼は、常に付けているマスクもなく、フードも勿論被っていないのだ。素顔を見たことがないわけではない。けれど、こうも触れられて見つめられると、現を抜かしている場合ではないと分かっていても、どうしても照れてしまうのだ。どうしたものかと視線を彷徨わせていると、「……悪かった」と頬から手が離れると同時に、そう呟いたゲアハルトの声が耳に届いた。


「救援を送らず、悪かった」


 凡そのことは昨晩、ヒルデガルトから聞いていた。拉致された自分に対し、ゲアハルトは救援を出さなかったということも聞いていた。何より、それは予想していたことであり、心苦しげに頭を下げる彼を見てもどうして、という気持ちにはならなかった。司令官として正しい判断をしたのだから、謝ることなんて何もない――アイリスはそう言って、頭を上げるようにと深く頭を下げているゲアハルトに言った。
 心細くなかったかと言われれば、それは嘘になる。正しい判断であると思っているし、それでよかったとも思っている。恨むつもりだってないのだ。けれど、心細く思っていたことも事実だ。無論、それを口にするつもりはない。ゲアハルトのことだ。間違った判断はしていないと本人自身、分かっていても、自分を責めない理由にはならないのだから。


「もういいんです。こうして帰って来れたんだから……それに、今回のことは相談しなかったわたしに非があります」
「……そんなことは、」
「わたしが、ちゃんと相談しておけばよかったんです。自分一人でどうにか出来るって、自分の判断は間違ってないんだって……これでよかったんだって……」


 自分一人でどうにか出来る、これでいい、間違っていない。そう思わずに、ちゃんと相談しておくべきだったのだ。周りにはいくらだって相談に乗ってくれる人がいたのだ。一言、相談していたのなら、ここまで拗れることはなかったはずだ。自分のことだからと、プライベートなことだからと胸の奥にしまっておくべきではなかった。
 それでも尚、ゲアハルトは君の所為ではないと言ってくれる。その優しさが嬉しくもあり、申し訳なくもあった。彼がエルンストと戦ったことを思うと、きっと苦しくて辛くて仕方なかったことだろう。そのことをこそ、自分は謝らなければならない。辛くて苦しい思いをさせた上に、怪我まで負わせてしまったのだ。謝っても、きっとゲアハルトは「君の所為ではないから」と言うのだろう。その優しさが、今は心苦しかった。
 詰られて、怒鳴られた方が余程ましだった。けれどきっと、自分の知る者は誰もそのようなことはしないのだろう。何より、詰られて怒鳴られて、それですっきりするのは自分自身だ。結局、楽になりたいだけではないかと未だに心のどこかで思っているらしい自分に気付き、アイリスは僅かに眉を寄せた。


「どうした?」
「いえ。……それより、あまりわたしが長居してもお身体に障りますから拉致されている間のことを報告させて頂きます」
「ああ、頼む」


 一瞬、ゲアハルトは何か言いたげな顔をした。だが、今回、アイリスを呼び出した理由は無事を確認することもあるが、彼女の口から拉致されている間に見聞きしたことや顛末などの報告を受ける為だ。ゲアハルトはまだ意識を取り戻して然程時間が経ってはいない様子であるため、身体を十分に休めてもらう為にも用件は早く済ませるに限る。
 アイリスは昨夜、ヒルデガルトに対して話したことに一晩経ってより鮮明に思い返して思い出したことを付け加えながら話した。事の顛末は、彼女が来る前にヒルデガルトが用意したらしい報告書で知っていたらしく、彼からはより細かなところを問い掛けられた。そうして思い出せる限りでゲアハルトの問い掛けに答えていった。
 そうして尋ね終えた彼は暫しの間、考え込むような素振りを見せた。何かを迷っているような様子でもあり、アイリスはどうしたのだろうかと僅かに眉を寄せてゲアハルトが口を開くのを待った。そうして更に少しの間を置いた後、彼が口にしたのはカサンドラの名前だった。


「……本当は伝えないつもりだった。知らないままの方がいいと思っていた」
「……」
「だが、アイリス、君はカサンドラに目を付けられている。既にコンラッド殿の地下研究室は地中に埋もれてしまっているし、恐らく、エルンストからある程度の輝石に関する研究成果は流れているはずだ。だから、白の輝石に関することで君に接触することはないとは思う」


 ただ、あいつは君のことを邪魔な存在として見ているだろう。
 ゲアハルトは真っ直ぐにアイリスを見つめ、どこか緊張した声音で言う。今までの報告を聞いてそう思うところがあったのだろうが、アイリス自身、恨まれていてもおかしくはないという自覚はあった。自分はたった一人で逃げ遂せたわけではない。アベルやブルーノの助力があってこそ、逃げ遂せることが出来たのだ。
 そして、カサンドラにしてみれば、二人が協力することも、況してやアベルが出奔することも想定外のはずだ。そして、今現在もアベルは自身の知る帝国に関する情報を提供し続けているらしい。そのきっかけとなった人間は、他の誰でもなくアイリスだ。そんな自身を、彼女が恨まないはずもなく、未だにエルザの命を狙い続けるようなカサンドラの性格を思えば、その狙いに自分も含まれてもおかしくはない。ゲアハルトはそのことを危惧しているらしい。


「アイリス、どうか落ち着いて聞いて欲しい」
「……はい」
「……君の養父、コンラッド殿は正確には戦死ではなかった」
「え……」
「戦場で拉致され、殺された」


 カサンドラに――告げられたその言葉にアイリスは目を見開いた。口元を手で覆う彼女から視線を逸らし、ゲアハルトは養父の身に起きたことを話した。
 カサンドラが出奔して暫くした後、戦場に出ていたコンラッドが拉致された。元々、彼を拉致することこそが目的だったらしく、拉致した後はすぐに退いていったのだという。無論、だからといって簡単にベルンシュタイン側も退くわけにはいかない。コンラッドが白の輝石を研究していることを知っていたごく一部の者たちがすぐに兵士を率いて追撃したのだ。
 そうして再び戦端が開いたのだが、コンラッドが生きて戻ることはなく、漸く帝国軍を退けて彼らの拠点に辿り着くと、そこには拷問を受けた後の無残な彼の骸が横たわっていたのだという。そして、その手法はまさにカサンドラが幾人もの女性兵士に対して行ったものと同様であり、取り逃がした彼女の行方がヒッツェルブルグ帝国にあるということの証でもあった。


「カサンドラがどのようにしてコンラッド殿が研究に携わっている情報を掴んだのかは知れない。だが、ホラーツ様ならばコンラッド殿に任せるだろうという予想の元に拉致した可能性は高い」
「……」
「恐らく、カサンドラはこの件で君に揺さぶりを掛けて来るだろう。だから、……伝えておいた方がいいと思ったんだ」


 急にこのようなことを聞かせてしまってすまない。
 視線を伏せ、沈鬱な様子で言うゲアハルトにアイリスは暫しの間を置いてから首を横に振った。


「……司令官……それじゃあ、棺に収められていた養父の身体は……」
「とてもではないが、見せられるものではなかった。君が見ていたものはエルンストが見せた幻だよ」
「……エルンストさんが……」
「ああ。……本当は、このまま知らせずにいられたらよかったんだが」


 もしものことを思うと、知らないままでいない方がいいと思った――そう言ったゲアハルトにアイリスはすぐには何も言えなかった。戦死したのだとずっと思っていたのだ。戦場で、戦って、死んだ。軍人であることを誇りに思っていた養父はきっと、戦場で死ねて満足しているはずだと、信じていたのだ。否、そう思わなければならないと思っていた。
 けれど、そうではなかったのだ。拉致され、拷問にかけられた。エルンストが見せない方がいいと判断するほどなのだ。きっと、自分が思っているよりもずっと酷い、凄惨な遺体だったのだろう。それでも、養父は何も教えなかったに違いない。だからこそ、つい先日まで白の輝石を研究していた場所は封じられたままだったのだ。
 養父は情報を守り抜いた。自分が死ぬことも、痛みによる恐怖にも耐え抜いて、国を守ることを最優先とした。否、それだけではなかったのかもしれない。その頃には既に亡くなっていたアウレリアの元に行けるのだと、痛みも死も受け容れていたのかもしれない。無論、本当のところは分からない。ただ、ただ、機密を守ることに殉じたのかもしれない。だが、アウレリアだけを愛し、彼女以外の女性を迎えることもなく、彼は独身を貫いた。アウレリアが亡くなったことで没落したからということもあるかもしれないが、それでも、貴族であるコンラッドが妻を迎えず、アイリスを養女にした上で死んだということは少なからず、そのような思いがあったかもしれないのだ。ずっと、戦場に死に場を探していたのではないか、と。


「……いえ、本当のことを知れて、よかったです」
「アイリス……」
「大丈夫です。わたしは……復讐しようなんて、思ってませんから。復讐したところで何も変わらない、悲しみが増えるだけだと……それが養父の口癖でしたから」


 もしかしたら、養父にはそういう経験があったのかもしれない。そんなことを考えながら、アイリスはじわりと浮かんだ涙を拭うとポケットに入れたままにしていた宿舎に届けられていた荷物の中から見つけた白の輝石が入った小袋を取り出した。そして、「これ、わたしの荷物に紛れていました」とゲアハルトに差し出す。


「ああ、いきなりで驚いただろう。悪かった」
「いえ……でも、どうしてわたしのところに……」
「他に丁度いい隠し場所もなかったし、まさかアイリスの荷物に紛れ込んでいるなんて誰も思わないだろうからな。……それに宿舎に隠してあるなんて、エルンストはきっと想像もしなかったはずだ」
「……エルンストさん」


 やはり、場所を移し替えた理由はエルンストの奪取を予想してのことだったらしい。彼の名前を出すと、やはり空気は重くなり、ゲアハルト自身の表情も暗くなる。色々と思うところはあるのだろうが、おいそれと問い掛けるわけにもいかない。二人の仲が抉れた原因は自分自身にあるのだということが分かっている以上、アイリスが言えることなんて、掛けられる言葉なんてないのだ。
 そろそろ、ゲアハルトも休んだ方がいいだろうと頃合いを見た彼女は静かに立ち上がると「わたしはこれで失礼します」と微かな笑みを浮かべて見せる。怪我をしている上に意識が戻ったばかりのゲアハルトのところに長時間滞在するわけにもいかない。
 けれど、一礼して踵を返した直後、手を引かれた。引っ張られるがままにベッドに腰掛ける形となったアイリスは一体どうしたのかと肩越しに振り返ろうとするも、それよりも先に身体にはゲアハルトの腕が回った。決してきつくはなかったけれど、ぎゅっと回された腕に力が籠る。その所作にアイリスは顔を赤くしながらも、肩に押しつけられる彼の顔から表情を読み取ることは出来なかった。


「……悪い」
「いえ……」
「でも、これで最後にする。……だから、今だけこうさせてくれないか」


 くぐもった声だった。何を意図してのことかは分からない。それでも、回されたその腕も、呟いたその声も、微かに震えているように感じられると、拒むことなど出来なかった。それと同時に、胸が痛んだ。自分のこういうところが、駄目だったのだと。


「……救援を出さなかった、出すことを許さなかった俺が言えたことではないと分かってはいるが……無事で、よかった」
「……はい」
「エルンストのことについてもそうだ。……辛い思いをさせて、悪かった」
「それは……司令官が謝られるようなことではありませんよ」
「……いや……俺は……」


 俺は、分かってた。
 何をとは、彼は言わなかった。ただ、分かってたのだと、言った。それがどういう意味だったのかは知れないけれど、とても後悔しているのだということだけは伝わって来た。言わんとしていることが全く分からないというわけではない。ただ、脳裏を過るその可能性を、認めてしまっていいのかが分からなかった。
 何より、ゲアハルト自身がはっきりと明言することを避けているのだ。ならば、踏み込まない方がいいのだろう。踏み込んで欲しく、ないのかもしれない。アイリスは何も言わず、包帯に巻かれた腕に触れ、視線を伏せた。それから暫くすると、ゲアハルトは徐に回していた腕を放し、「もしよかったら、今度一度でいいからエルンストに会いに行ってやってくれないか」と言った。ゲアハルトから提案されるとは思っていなかったが、ずっと黙秘し続けているということは聞いていたし、何より、もう一度ちゃんと会わなければならないとアイリス自身も思っていた為、分かりましたと頷いて、彼女は立ち上がった。


「また来ますね」
「……ああ」


 顔を見ることが、出来なかった。どういう顔をして振り向けばいいか分からず、アイリスは背を向けたまま部屋を後にした。廊下に出て後ろ手に扉を閉めたところで肩から力を抜く。そして、両手で相変わらず熱を持ったままの頬を押えて肺に溜まっていた空気を全て吐き出すように、大きな溜息を吐き出した。
 そうして、自分自身を落ちつけていると不意に廊下の窓の向こうの紅葉した木々に気付いた。思えばもう、秋も終わりに近づきつつある。朝晩は冷え込むようになり、もうすぐ赤くなった木々の葉も散り始めるだろう。ひんやりと冷たい窓ガラスに触れながら、気付けばすっかりと変わっていた風景を見て、アイリスはぽつりと呟いた。「約束、してたのに」と。もしかしたら、忘れてしまっていたのかもしれない。そう思いながら、アイリスは一度、宿舎に戻ろうと廊下を歩き始めた。



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