代償 - regret -



「……くそっ」


 カーテンを締め切った薄暗い宿舎の自室でレックスは一人、ベッドに潜り込んでいた。明け方、レックスは宿舎に戻って来た。昨夜、アイリスとアベルを迎えに近隣の街に出向いた帰りに襲撃を受けたのだが、その際に二人を先に逃がして敵兵の足止めの為にその場に残っていたのだ。
 現れた帝国兵のうち、指揮官以外の兵士は全てアイリスとアベルを追撃した。そして、レックスの元に残ったのは彼らを率いていた人間であり、先日、クレーデル邸の近くで足止めをして来た仇――アウレールだった。まさか、先日とは正反対の立ち位置になるとは思いもしなかったのだが、レックスは足止めというよりも自身の仇討を果たす為に剣を抜いた。
 結果は惨敗だった。最初はレックスが優勢だったのだが、目前の敵を殺すという意思を固めたアウレールの前に、彼の剣は通用しなかった。あっさりと防戦一方に転じることとなり、そのまま剣を躱すことで精一杯となっていった。切り傷が増え、息も上がり、重たい剣撃を受け続けたということもあって腕は痺れて剣を持ち上げることさえ難しくなってきた。そんな時、アイリスらが帰還したことで状況を知った騎士団からの応援が向かって来たのだ。


『ここまでか』


 アウレールはあっさりと剣を下げた。殺そうとも思えば、殺せたにも関わらず、だ。彼が剣を下げたと同時に手足から力が抜け、レックスは剣を地面に突き立てて身体を支えながら「待て!」と声を荒げた。見逃されるということが、耐えられなかったのだ。自分の剣が少しだって通用しなかった。簡単に返されてしまったのだ。これまで何年もの間、復讐を遂げることだけを目的に剣を振るい続け、実力だって付いたはずなのに――自分の努力がいかにちっぽけなものだったのかを思い知らされたかのように、じわりじわりと焦りにも似た絶望が、心の中に満たされていく。
 あまりにも惨めだった。自分の生きる目的が、いかに自分には過ぎたものだったのかを思い知らされたかのようだった。それほどまでに歯が立たなかったのだ。アウレールは剣を収めるとちらりとレックスに視線を向けた。その目は、酷く冷めたものであり、その視線を真っ向から受けた彼の背筋に冷たい汗が伝う。


『諦めろ。……貴様は俺には勝てん』


 ごく当たり前のことを、当たり前に彼は口にした。けれど、その言葉は深く、レックスの心に突き刺さった。これまでの自分の人生を、無駄だと言ったようなものなのだ。無駄な人生だった、だからもう諦めろ。アウレールの目はそう物語っていた。この先、何度、剣を交わしたところでひっくり返ることのないほどの力量差がある。そして、レックスがそれをひっくり返せるほどの力を手に入れられることはないのだと、彼は言ったのだ。
 仇を討てず、あまつさえ、情けを掛けられたのだ。これほどの侮辱はないとレックスは歯を食い縛る。力量差は、恐らく、アウレールの言う通りなのだろうとは思う。それを認めたくはないが、事実であるということを否定するほど、彼も自分の力量が分からないほど愚かではない。けれど、それを分かっていても、退けるわけではないのだ。
 元より、刺し違える覚悟は出来ている。レックスは足に力を入れ、歯を食い縛りながらゆっくりと立ち上がる。立ち去ろうとしていたアウレールはそんなレックスを一瞥すると僅かに目を細めながら「やめておけ」と口にした。邪魔者だからこそ、アウレールは先ほどまでレックスを殺そうとしていた。そんな彼が止めるなんて笑わせる、とレックスは唇を歪めた。彼にとっては、最早邪魔者とさえ認識されていないのだろう。自分は邪魔者として考えるほどの価値はない――言外にそう言われて、黙っていられるはずもなかった。


『レックス、やめろ!』


 けれど、再び剣をアウレールに向けて駆け出すよりも前に到着した仲間たちに間に入られてしまう。彼らはあくまでもレックスを連れ戻すことを任務としてやって来たのだろう。アウレールを警戒こそしても、誰一人として追おうとしていなかった。無論、アウレールが反撃に転じて来れば、応戦はするだろう。だが、そうでない限りは手を出すなとも重ねて命令を受けていたのかもしれない。
 アウレールも駆け付けた応援を一瞥こそしても、剣を抜こうとはしなかった。そのまま、背を向けると姿を消してしまった。それを追い掛けようとしたのだが、一歩踏み出すことも出来ず、駆け付けた仲間に羽交い締めにされてしまう。放っておけ、放せと声を荒げても、振り解くことさえ出来なかった。もう何処にもアウレールの姿はなく、また、情けを掛けられたという事実にレックスは喉が張り裂けるほど絶叫した。


「オレは……これまで、何の為に……っ」


 剣の鍛錬を怠った日はなかった。肉刺が潰れ、掌が硬くなり、血が滲むほどの努力を続けて来た。その努力もあって、認められて、第二騎士団に所属となってからは指揮を任されるようにもなった。だからといって、驕っていたわけでも満足していたわけでもない。任されるようになってからも鍛錬は続けていたし、任されるに値するようにと努力を惜しまなかった。けれど、自分のそんな努力はいとも簡単に裏切られた。まるで、通用しなかったのだ。
 レックスはごろりと寝返りを打ち、唇を噛み締めた。今は誰にも会いたくなかった。話したくもなければ、そもそも何もしたくなかった。ずきりと時折、身体に痛みが走る度に昨夜のことを思い出すのだ。その度に情けない自分のことが思い起こされる。枕に爪を立て、歯を食い縛ってそれをやり過ごそうとしても、向けられた憐憫の視線が瞼に焼き付いて消えなかった。







 

「え?もう、面会許可出たんですか?」


 昼を過ぎた頃、昼食を取っていたアイリスの元にアベルとの面会許可が出たという知らせが来た。どうやら、ヒルデガルトが尽力し、ゲアハルトも言い添えてくれたらしい。元々、彼の意識が戻ったということもあって全体的に滞っていた指示が通り始めたらしい。やはり、この国にはゲアハルトが必要なのだということを改めて実感しながら、食事を終えたらすぐに行くという返事をした。
 アベルとはたった一日、顔を会わせていないだけだ。けれど、彼が牢に入れられて捕縛されているのだということを思うと、そのたった一日さえもとてつもなく長く感じた。これまで離れていた時間の方が余程長かったというのに、この数日の間、一緒にいたからこそ、ついそういう感覚になってしまうのかもしれない。
 アイリスはそんなことを考えながらアベルと面会するべく、軍令部の地下牢へと向かった。そこは以前、ゲアハルトが捕縛されていた王城の地下牢とは異なり、質素ながらも清潔に保たれていた。元々、軍令部の地下牢はそれほど使用されることはないのだろう。地下牢と言うと、他の軍施設を使っているらしい。
 案内してくれる兵士は「此処です」とある牢獄の前で足を止めると、そのまま一礼の後にその場を離れて行った。てっきり話し終えるまで近くにいるとばかり思っていたのだが、もしかしたらヒルデガルトやゲアハルトが気を利かせてくれたのかもしれない。兎にも角にも、遠く離れたことを確認してからアイリスは改めて牢獄と向き合った。
 冷たい鉄格子が嵌められた、決して広いとは言えない牢獄だ。それでもレオやゲアハルトが幽閉されていた王城の地下牢に比べれば、余程ましに思えた。「そんなにじろじろ見てどうしたの?」と牢獄の最奥にある寝台に腰かけていたアベルは物珍しげなアイリスの様子に微苦笑を浮かべながら問い掛けて来た。


「思ってたよりも綺麗だったから……」
「ああ、そうだろうね。此処はあんまり使われてないみたいだから。使われたとしても、ちゃんと法律を遵守した扱いをしてるんじゃないの?」


 勿論、どのような場合であれ、捕虜の身柄の扱いについて法律に則った扱いをしているわけではないだろう。ベルンシュタインにも後ろ暗いことなどいくらだってあるはずだ。けれど、今はこうしてアベルも身の安全が保証された上で幽閉されているのだから、アイリスとしては安心だった。此処に来るまでに、もしもアベルが傷だらけだったらどうしようと心配していたのだ。


「はっきり言って、殴られて蹴られて転がされると予想してたんだけど」


 甘いよね、とアベルは自嘲する。それはきっと、法律を遵守しているからということもあるのだろうが、それと同じぐらいにアベルが素直に情報提供に応じているからだろう。アイリスがそれを口にすることはなかったものの、「予想が裏切られてよかったよね」と口にした。彼はその言葉に肩を竦めて見せるとゆっくりとした動作で寝台から立ち上がり、鉄格子の近くまでやって来た。一応、食事や睡眠も取っているらしく、顔色は思っていたよりも悪くはない。そのことに安堵しつつ、「司令官の意識、戻ってたよ」と午前中にゲアハルトと会っていたことを話した。


「随分と長く意識不明が続いたもんだよね。……まあ、無理もないだろうけど」
「どういうこと?」
「考えてもみなよ。あの人にとっては、目が覚めない方が幸せだったんじゃない?馬鹿軍医はさ……あの人にとっては、親友……だったんだろうし、そんな人に裏切られて、殺し合って……事情を問い質さなきゃいけないんだよ?」


 意識なんて戻らない方が、いや、起きたくないって思ったっておかしくはないでしょ。
 アベルは視線を伏せながら言う。もしかしたら、彼も同じことを思っているのかもしれない。アベルは兄であるカインを止める決めた。けれど、刃を突き付け合うことになるぐらいなら夜に眠った後、そのまま目覚めないことを願ったとしても何ら不思議なことではない。その方がずっと、楽なのだから。それをゲアハルトが願ってもおかしくはないはずだ。
 無論、これは想像の範囲を出ないことではある。けれど、そんな気持ちがゲアハルトにあったとしても、不思議ではないとアイリスは視線を伏せた。彼にとってエルンストは大事な友人だ。そんな相手に裏切られ、剣を向け合うことになったのだ。何も思わなかったはずがない。辛くなかったはずが、苦しくなかったはずがないのだ。悲しくて悲しくて、どうしようもなかったはずだ。


「……あんたの所為じゃないよ」


 ぽつりとアベルは言った。エルンストの凶行の動機を、彼は知っているのだろう。カサンドラから聞かされていたのかもしれないが、アイリスは何も言うことが出来なかった。誰もが口を揃えてアイリスの所為ではないと言う。けれど、その度に思うのだ。自分一人で抱え込まずに誰かに相談していたのなら、こんなことにはならなかったのではないのか――事実、そのはずだと思ってもいる。到底抱え切れぬことなのだ。人一人の気持ちなんてものは、そう簡単に受け止めきれるはずもない。それほど軽いものでも、安いものでもないのだ。
 大事に大事に想ってくれていた気持ちを自分は蔑ろにした。その結果が、このような事態を引き起こしたのだ。決してエルンストの気持ちを蔑ろにするつもりなどなかったのだ。けれど、今更それを言ったところで遅い。既に事態が引き起こされてしまった以上、これ以上は選択を間違えないようにするしかないのだ。


「ありがとう。……でもね、ちゃんと周りに相談しなかったわたしもいけなかったんだよ」
「……」
「わたしの周りには、相談に乗ってくれる人なんていくらでもいたのにね」


 周りが見えていなかった。自分一人でどうにか出来ると思っていた。正しいとばかり、思っていたのだ。そのことを思うと、自分は随分とエルンストに対して酷い仕打ちをしていたとも思う。けれど、今更気付いたって過去を変えることは出来ない。ならば、どれだけ悔いても今できることをするしかないのだ。
 アベルは暫しの沈黙の後、「馬鹿軍医に会うの?」と呟いた。その声音から心配してくれているのだということが伝わって来る。そんな彼にアイリスは微かな笑みを浮かべて、頷いて見せた。元々、会うつもりではいたのだ。ゲアハルトは一度でいいから会って欲しいとは言っていた。だが、黙秘を貫いている上に彼が仕出かしたことを思うと簡単に面会が叶うとは思えない。申請してから許可が出るまで時間も掛かるだろう。


「心配してくれてありがとう。でも、平気だよ。元々、会おうと思ってたんだから」
「……それなら、いいけど」
「無理もしないから。ちゃんと気持ちの整理をして、それから会おうと思ってる。それに今回みたいに簡単に許可が降りるとも思えないから」


 それはアベルも考えていたことらしく、渋面を浮かべている。白の輝石を奪おうとした上にゲアハルトに怪我を負わせ、他にも器物破損など様々な罪状が挙げられている。けれど、彼は牢獄から出ようと思えば出られる身の上だ。どちらかと言うと、アベルが心配しているおはそちらの方だろう。保釈金を積んで牢獄から出てきたとしても、自由の身とは言えない。ほぼ間違いなく監視は付けられるだろう。だが、エルンストならば容易く監視など撒くことが出来るはずだ。だからこそ、アベルは渋面を浮かべているのだとは思う。
 けれど、エルンストにはもうそのような気力はないだろうともアイリスは思っていた。顔を合わせてもいないのだから、本当のところは分からない。それでも、彼だって十分過ぎるほど傷ついているのだ。逃げるなんて気力はないだろう。カサンドラに加担し、ゲアハルトを裏切り、傷つけた時点で、もう、彼の心はどうしようもないほどに傷ついている。
 そんな状態で動けるほど、人は強くないのだ。アイリスはそのことを知っていた。それでも立ち上がることの出来る者は勿論いるだろう。けれど、エルンストはそんな人間ではない。彼は、弱いのだ。強さを装った仮面で素顔を隠しているだけで、本当は、とても、弱い人だ。だからこそ、ちゃんと向き合わなければならなかったのだ。


「許可が出たら……ちゃんと、向き合って来る」
「……何かあったら、僕に話してよ」
「うん、相談するね」


 アイリスが頷くと、アベルは視線を逸らして僅かに眉を寄せた。何かを言い淀むその様子にどうしたのだろうかと思いつつ、彼が口を開くのを待っていると「……無理はしないでね」とアベルは呟いた。


「原隊復帰が難しいってことぐらい、僕だって分かってる。いくら知ってることを全部話したって、それぐらいのことで復帰出来るほど甘くもない。それに、何かあってもあんたが此処に来るのだって簡単なことじゃないし、僕があんたの為に出来ることなんて話を聞くことぐらいだ」
「……アベル」
「だから、無理だけはしないで」


 鉄格子から伸びて来た冷たい手に指先を握られる。向けられる黒曜石の隻眼は真剣で本心からの言葉だということが伝わって来る。幽閉されて、今は知ってることを話すしかないということが、本当は歯痒くてならないのだろう。
 アベルはカインを止めたいと言っていた。そのためにはどうにかして牢獄を出なければならない。無論、脱獄するということではない。復帰しなければ、意味がないのだ。アベルは顔を伏せると、そのまま暫く黙り込んでしまう。何か考えているのかもしれない。アイリスはそんな彼を見つめながら冷たい手を握り返した。


「……今日は、来てくれてありがと」


 幾分か時間が経った後、唐突に彼は呟いた。掛けられたその言葉に僅かに目を見開くも、アイリスは「ううん、わたしも話したかったから」と微かな笑みを浮かべて言った。特に面会の時間に制限はない。それでも、そろそろ頃合いではあるのだろう。ゆるゆると顔を上げたアベルの表情は何かを決めたかのように、どこかすっきりとしたものだった。
 どうしたの、と問おうとするも言葉が出るよりも先に「あんたと会えてよかったよ」と思いもしない言葉がアベルの口から出てきた。アイリスは目を見開くと、一体どうしたのかと慌ててしまう。そのようなことを言われるとは思いもしなかったこともあり、頬は赤く染まっていた。


「別に、他意はないよ。ただそれだけ」
「で、でも」
「調子乗らないでよ。思ったから言っただけ、もう二度と言わないから」


 ふいと顔を背け、アベルはアイリスの手を離して立ち上がった。つられるようにして彼女も立ち上がると、未だに赤い頬を押えながら「いきなりそんなこと言うなんて、アベルらしくない」と唇を尖らせる。他意はないと言われても、いきなりあのようなことを言われると戸惑ってしまう。


「……ただ、思っただけだよ」
「え?」
「言いたいこととか、そういうことは……言えるときに言わなきゃって」
「……うん」
「色んなことがあったからそう思っただけ」


 そう言って笑ったアベルは吹っ切れた様子で少しだけいつもよりも明るい笑みを浮かべていた。それは初めて見る笑みでもあり、アイリスは僅かに目を見開いた。けれど、どうしてかとその理由を問うよりも先に「そろそろ戻った方がいいんじゃないの?」と言われてしまう。問い掛けてはいるものの、言外に戻るように言われているのだということが分かる手前、頷かないわけにもいかない。
 また来るからね、と言うとアベルは捕えられているにも関わらず、穏やかな表情で頷いた。「気を付けてよ」と念を押す彼に頷き返し、アイリスは名残惜しさを感じながらも宿舎に戻るべく軍令部を後にした。




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