開戦 - struggler -



 とても静かな夜だった。月も中天を過ぎた頃、アイリスは医務室にいた。そろそろレックスら先行部隊は出撃する頃だろう。今から玄関に行けば、見送ることも出来るはずだが、彼女は扉に背を向けて何度も何度も消毒液やガーゼ、包帯などの数を確認していた。薬草は足りるだろうか、もう少し持って行くべきだろうかと思案して努めてレックスのことを考えないようにしていた。
 見送りになど行けば、行かないでと言ってしまいそうだからだ。引き止めてしまいたくなる、彼の意志を無視して行かないでと泣いてしまいそうになる。それだけはしたくなかった。レックス自身が考え抜いて決めたことなのだ。漸く、復讐に囚われていた彼が自分自身で一歩を踏み出したのだ。ならば、それがどのような選択であれ、応援してその背を押すことが自分のするべきことなのだとアイリスは思っていた。
 それでも、それに反したことをしたくなってしまうのだ。他のどの配置よりも危険な場所だ。生還出来る可能性なんて殆どないに等しい。そんなところに行くという幼馴染を、止めずにいられるわけがないのだ。だからこそ、アイリスは努めて彼のことを考えないようにしていた。きゅっと唇を噛み締めて、数を数えて気を紛らわせる。それでも、集中することは出来なかった。途中まで数えて、そして、ふと分からなくなる個数に唇を噛みながら、また一から数え直す。
 既に何度も数え直しを複数人で行っているのだから、この行為自体には意味はない。ただ、気を紛らわせる為だけの行為だ。それならば、余程身体を休めた方が有意義ではある。けれど、眠れるはずがなかった。横になれば、考えるのはそれこそレックスのことだ。そして、眠れぬまま夜を明かすのなら、起きていても大差はない――そうしているうちに、ふと玄関の扉が開き、複数人の靴音が聞こえてきた。


「……っ、」


 アイリスははっとすると、すぐに窓へと駆け寄った。そして、暗闇に目を凝らし、鮮やかな赤い髪を探す。暫くすると厩から連れて来た馬に跨り、次々と宿舎を出発していく影が見え隠れした。アイリスが身を乗り出すと木々の間からちらりと赤い髪が見えた。咄嗟に名前を呼びそうになる。けれど、すぐに馬を駆って見えなくなるその姿に彼女は口を閉ざすとそのままずるずると床に座り込んだ。
 冬の冷たい夜風が吹き込む。その寒さに震えながら、ぽたりぽたりと頬を滑った涙はとても熱かった。これでよかったのだと思う。迷わせて、レックスの決意を鈍らせるようなことだけはしたくなかった。あの時、名前を呼んでいたならば――きっと、来てくれていただろう。だが、それでは駄目なのだ。いつまでもレックスの優しさに甘えるわけにはいかない。
 彼はきっと、もう既に気持ちの整理は出来ているのだ。だからこそ、迷わせるようなことをするわけにはいかない。これでよかったのだと、自分に言い聞かせるも、涙はなかなか止まりそうになかった。自分はこんなに泣き虫だっただろうか――これまで幾度となく、涙が零れる度に思ったことを再度自分に問い掛けるも、答えは出なかった。


「……何か飲も」


 涙が止まった頃、アイリスは濡れた目元を袖で拭うとゆっくりと立ち上がった。どれほど時間が経ったのかは分からない。だが、酷く喉が渇いていた。何か温かいものを飲んで落ち着こうと備え付けのキッチンに歩み寄る。そして、すぐ近くの食器棚からエルンストが自分にと用意してくれたピンクのマグカップを取り出す。これを使うのも今日が最後なのだろうかと考えていると、マグカップの中に折り畳まれた紙が入っていることに気付いた。
 一体何なのかと思いつつ、マグカップを置いて紙を取り出して広げると、それは封筒であり中には手紙が入っていた。誰に宛てられたものなのか、そもそも誰が書いたものなのかは分からない。だが、この医務室の主はエルンストであり、このピンクのマグカップはアイリスのものだ。そうなると、必然的に誰が誰宛に書いた手紙なのかは絞られてくる。アイリスは目を見開きながらも恐る恐る手紙を開く。そして、そこに書かれている文字が確かにエルンストのものであることを確認すると、ゆっくりと文面に目を通し始めた。


 これを読む頃には、きっと俺は死んでるか捕まってるかしていると思う――


 そんな書き出して始まった手紙には、彼がしたことの謝罪が書かれていた。恐らく、アイリスが連れ去られる直前に書かれたものなのだろう。エルンストが捕縛された後、医務室はゲアハルトの指示で検められたと聞いていた。しかし、この手紙が残っていたということはマグカップの中までは検められなかったのか、それとも見つけたとしてもゲアハルトの指示で戻されたのか――そのどちらかだろう。
 手紙には自分の行為は間違っていることは分かっているのだということが書かれていた。間違っているということも、決して実行するべきではないことだとも、彼は分かっていた。それをすれば、どうなるのかも全て分かった上で実行した――それはどのような気持ちだったのかを考えると、どうしようもなく胸が痛んだ。
 

 君は軽蔑するかもしれないけど、それでも俺は、後悔だけはしたくなかった。


 今となっては、彼はこれまでずっと孤独だったのだと分かる。勿論、ゲアハルトやヒルデガルトのように親しくしている者はいるし、レックスやレオも何だかんだ言いながらも彼のことを慕っている。それでも、そういった者は圧倒的に少ない。エルンストの性格にも問題はあるのだろうが、それ以上に彼の生まれの方が強く影響していたのだろう。
 誰もがエルンストのことを話すとき、二言目には“シュレーガー家の御曹司”という言葉が続く。彼の兄であるギルベルトが存命だった頃はその言葉が続くだけでなく、比較もされて来たのだろう。そのことを思うと、エルンストが少なからず排他的になることも心を許した相手に依存することも致し方ないとも思えた。
 彼は決して強い人間ではなかったのだ。強いようで、本当はとても弱いのだ。心がとても、優しすぎて、脆い。分かっていたことではないか、とクレーデル邸で縋りつかれたときの手を思い出す。思えばきっと、あの時の返事を自分が間違えてしまったことが引鉄になったのかもしれない――無論、それはアイリスの想像でしかない。エルンストは心底から憎んでいたカサンドラと内通していたのだ。彼女から揺さぶりがあったことは想像に難くはなかったが、そもそも、カサンドラと手を組むことも自分がちゃんとエルンストのことを支えていたならなかったはずだとアイリスは唇を噛み締め、手紙を握る手に力が籠る。


 君のことを好きになれてよかったと心から思ってる。


 最後のその一文に止まったはずの涙が浮かんだ。エルンストはただ、純粋に想ってくれていた。どうして自分はその気持ちに気付かない振りをしてしまったのかと悔やんでならない。全てはもう済んでしまったことであり、あの時ああしていれば、こう答えていればといくら考えたところで、それは結果論でしかない。
 ヒルデガルトは言っていた。向けられた気持ちを受け止めきれなくてもそれは仕方がないことだ、まだ十六歳なのだから、と。たった十六年生きただけの自分が人一人の気持ちを受け止めきれるはずがないのだから気に病むなと、彼女は言ってくれた。それはきっと、自分のことを慮ってのことだろうし、エルンストが向けてくれた気持ちはきっととても、良くも悪くも一人で抱え込むには重たいものだったのだろうとも思う。
 それでも、気付いていたのだ。ずっと気持ちを向けてくれていたことに、本当は気付いていたのだ。それを今のこの心地よい関係を崩したくがないために気付かない振りをしていたのは、自分だ。ずるいことを、酷いことをしてきたのだ。そして、支える自信がなくて、逃げて、楽になろうとした。本当にずるくて嫌になる。


「……エルンストさん、」


 ごめんなさい、と口にしたその声は涙で濡れて、震えていた。彼もアベルと共に出兵に同行することは通達されていた。白の輝石は未だ覚醒せず、実験を続行しつつの出兵となったからだ。彼らの身柄は後方支援で預かることとなっているため、顔を合わす機会もあるのだろう。今までだって地下牢に通う度に顔を合わせてはいたが、こうして改めて彼の想いに触れた上で顔を合わせるとなると、やりづらさがある。
 けれど、もう逃げるわけにはいかないのだ。逃げずに正面から向き合うことが自分に出来るせめてものことなのだとアイリスは自分自身に言い聞かせる。何事からも逃げるだけではどうすることも出来ないのだ。どれほど怖くても、嫌でも、辛くても、向き合わなければ前に進むことなど出来ないのだと、アイリスは手紙を抱き締めて、きゅっと唇を噛み締めた。








 このままでいいのかと、ずっと考えていた。硬い寝台の上でごろりと寝返りを打ちながらぼんやりとアベルはこの地下牢に入れられてからのことを考える。自分はカインを止めなくてはいけないのだとそう思ってから、随分と気持ちは楽になった。これまで、ただただ、傍にいて言うことを聞いて、兄を受け入れることが自分に出来ることだと思っていた。だが、本当はそうではなかったのだ。
 カインのことを思えばこそ、止めるべきだった――今更かもしれないが、それでも、自分がしなければならないことなのだと思うと、すとんと心の中に落ちて、納得できた。そのためにはベルンシュタインが勝たなければならず、そのために白の輝石の覚醒は必須条件だった。だからこそ、実験にも協力してきた。
 だが、結局、出兵間際になっても白の輝石は覚醒しなかった。今後は出兵しつつ実験を継続することになり、アベルやエルンストも同行することとなった。けれど、本当にそれでいいのだろうかとアベルは疑問に思ったのだ。白の輝石の覚醒なくしてベルンシュタインの勝利はない――無論、覚醒したとしても圧倒的な兵力さをひっくり返すことにはならないだろう。要は士気の問題であり、黒の輝石を対消滅させるというゲアハルトの目的にとって必要不可欠であるというだけのことだ。勿論、伝承通りに願いが一つ叶えられるというのなら、勝利を願えばいいだけのことだ。そうすれば恐らく、ベルンシュタインは勝てるのだろう――しかし、それでは根本的な解決にはならない。
 どちらにしろ、未だ勝機は見えていない。寧ろ、劣勢に立たされているのはベルンシュタインの方だ。それを打開するだけの策をゲアハルトは用意しているのかもしれないが、それにしても聊か急ぎ過ぎているように思えてならない。普段の彼ならば、時間を費やしてでもより確実な方法を取るはずだ。このような実験を現地でも継続しながら出撃するなんて方法を取るとは思えない。無論、帝国は待ってはくれない。準備が出来次第、ベルンシュタインの用意など気にせずに出撃して来るだろう。そのことを考えると、ゲアハルトの指揮は間違ってはいない。だが、それでもアベルには彼が急いでいるように思えてならないのだ。


「……ねえ、起きてる?」


 アベルは身体を起こすと、ひんやりと冷たい壁に向かって声をかけた。眠っているだろうかと思うも、予想に反して「起きてるよ」というエルンストのはっきりとした声が聞こえて来た。彼はもしかしたら、自分の知らないことを何か知っているかもしれない――漠然とそう思ったのだ。幽閉されてはいても、エルンストはゲアハルトの考えていることを少なからず察することは出来るはずだ。だからこそ、自分の感じていたことをそのまま問い掛ける。


「何か、司令官……急いでるような、焦ってるような気がする。僕らを連れて実験を継続しながら出撃なんてさ……」
「……そりゃあ、急ぐよ。黒の輝石はもうすぐ覚醒する。覚醒してしまえば、白の輝石を以てしても、恐らく対消滅は叶わないから」


 帝国が行っている黒の輝石の研究についてはアベルもあまり知らないのだ。機密事項に当たるということもあるのだが、興味がなかった以上に彼が契約を交わしている召喚獣もその石に関してはいい顔をしなかった。出来るだけ関わらない方がいいとさえ忠告されていたこともあり、アベルは距離を置いていた。カサンドラが研究に関わってもいたが、彼女も黒の輝石については殆ど何も口にしなかった。
 ただ、一度だけ――早く覚醒して欲しいということを口にしていたことを覚えている。カサンドラは元々、目的を持って帝国に寝返ったのだと聞いていた。それが彼女の抱えているエルンストの実の兄の蘇生であるということも知っていた。恐らく、黒の輝石にはそうした死者の蘇生を可能にする禁忌の力があるのだろう。
 けれど、そうした力があるとしても、今現在、帝国の空から太陽を奪っている悪天候や土地を痩せ細らせている異常気象の原因だとしても、そして、ゲアハルトが本来であれば帝国の皇帝の地位に就く人間だとしても、自国と同じように大切にしてきたベルンシュタインを危険に晒してまで出撃を急がせることに、納得は出来なかった。対消滅が叶わなくとも、白の輝石に願えばいいのだ。黒の輝石を消滅させて欲しい、と。


「それは難しいんじゃないかな」
「どうして?」
「この世に万能なものなんて存在しないから」
「……」
「言い換えると、何の代価もなしに願いを叶えることは可能なのかってこと。というか、白の輝石が何でも願いを叶えてくれる伝承だって本当のことかは分からないからね」


 その言葉にアベルは目を見開く。けれど、言われてみると確かにその通りだとも思った。願いを叶えてくれるという話はあくまで伝承であり、それが真実である保証など何処にもないのだ。その事実を突き付けられると、反論することは出来なかった。そして、一つの仮説も浮かんでくる。黒の輝石も同様に、願いを一つ叶えることが可能なのではないか、ということだ。
 帝国側に伝わる黒の輝石の伝承をアベルは知らない。そのような伝承に感けていられるような生活をしていなかったということもあるのだが、知ろうと思えば知れたはずの事柄であるため、生まれのことは言い訳に出来ない。アベルは自嘲するように笑った。自分は本当に何も、兄のことも周囲のことも、何も知ろうとはして来なかったのだということを改めて実感したからだ。


「……でも、輝石のことで急いではいても、俺は出撃時期については妥当だと思うな」
「どうして……だって、捕虜の収容施設の対応だってしなきゃいけないのに、」
「だからこそ、だ。収容施設の対応に全力を注ぐうちに周囲を囲まれる可能性は高い。そうなれば、ベルンシュタインは火の海だ。いや、あいつらは肥沃な土地を求めてるから全面的に焼け野原にするなんてことはないだろうけど、とにかく逃げ場なんてなくなって、それこそ殺戮されるだけだ」
「……それは……」
「だから、周囲を封殺される前に何としても出撃する。その為に本隊の兵を収容施設の対応に割かなきゃいけなくなるけど、最悪を想定した場合、これは妥当な判断だよ」


 淡々と告げられる言葉にアベルは言い返すことは出来なかった。そもそも、収容施設の内部工作を行っていたのは他ならぬ自分自身だ。どうしようもないほど、罪悪感が胸に湧き上がる。しかし、それに気付いているのかいないのか、エルンストは追い打ちを掛けるように「多分、収容施設への対応はレオに任せられるんじゃないかな」と口にした。


「え?でも、レオは国王なんだから……、」
「国王だからこそ、前線には連れて行かないんだよ、多分だけど。前線なんて殆ど死地に行くようなものなんだ、そこにレオを連れて行くような判断を司令官がするとは思えない」
「でも!」
「勿論、ここだって安全なわけじゃないけどさ……前線に連れて行くよりも余程生き残れる確率は高い。他の兵士だってレオを最優先で守るだろうし、いざとなれば城に籠城することも出来る」


 レオの性格を考えれば、どうしようもなく不安になった。彼が後ろで指揮を執るような人間ではないということをアベルはよくよく知っているからだ。そして、自分が内部工作をしたからこそ、収容施設にいる帝国兵らがどのような手段を講じるかも分かっている。それらは全てゲアハルトに話したし、その上で策を講じてくれているはずだ。だが、アベルが知っているのはあくまでも自分が寝返るまでの状況であり、寝返ってから既に手段を変更するには十分過ぎるほどの時間も経っている。
 全てが自分の知っているままに動くはずがない――それを思うと、途端に血の気が引いていくようだった。冬の寒さではなく、指先が冷たくなっていく感覚があった。


「……あんたは、司令官の考えてること、よく分かるんだね」
「そりゃあ……近くにいたからね」
「……」


 近くにいたからだとエルンストは言った。その言葉にアベルは自嘲する。自分だってカインの傍にいたのだ。それなのにもう、兄の考えていることは分からなかった。


「……この国には、レオが残るんだよね」
「多分だけど。でも、俺が司令官と同じ立場なら、やっぱり同じ指示を出すよ」
「……そうだよね、僕もそう思う」


 兎に角、本隊は周囲を封殺される前に出撃しなければならない。そして、黒の輝石を対消滅させる為には白の輝石を覚醒させなければならない。そうしなければ、勝機さえなくなってしまう。
 そのために自分が出来ることは白の輝石を覚醒させるために魔力を与え続けることだけなのかと考え、アベルはそうじゃないと首を横に振った。そして、寝台から下りると、エルンストの牢と隣接している壁へと歩み寄る。ひんやりと冷たい壁に触れて、「だから、」と意を決した表情でアベルは口を開いた。


「僕は、レオのところに行くよ」


 迷いはなかった。元々、収容施設の内部工作をしたのは他の誰でもなく自分自身なのだから、後始末は自分で付けるべきなのだとアベルは口にする。その声に迷いはなく、常と変わらぬ声音だった。エルンストがどういう顔をしているのかは分からない。だが、「いいんじゃないの?」と笑みを交えながら、彼は背を押すように言う。


「あんたはどうするの?」
「俺は残るよ」
「……本当にそれで、」
「いいんだよ。お前と同じだよ、自分に出来ることがあるのが戦場だってだけのこと」
「……」


 エルンストは今でこそ軍医だが、元々は第一騎士団所属だった人間だ。本隊と共に出兵した方が実験以外にも彼の力を発揮することにも繋がるかもしれない。勿論、それはベルンシュタインに残っても同じことが言えるだろう。それでも、エルンストがこの場に残ることを選んだ理由は、きっと、ゲアハルトに対する罪滅ぼしの意味もあるのだろう。


「ほら、行くなら早く行った方がいい。どうせ騒ぎになるんだ、司令官が来たら俺からも上手く言っておくよ」
「……うん」
「馬鹿な国王陛下が無茶しないようにお前がちゃんと止めろよ」
「分かってるよ。……あんたも、……あんたも、気を付けて」
「……お前もな」


 アベルはそのまま反対側の壁に近寄ると、召喚獣を呼び出した。本当は、逃げようと思えばいつだって出来たのだ。足元に浮かぶ魔法陣からフェンリルが飛び出して来るも、あまりの牢の狭さにその巨躯が壁や天井、鉄格子にぶつかってしまう。思っていたよりも大きな音が出たことにアベルは一瞬焦るも、誰にも見つからずに脱出出来るとは端から思っていない。
 すぐにフェンリルに手錠を破壊させ、そのまま鉄格子も破壊するように命じる。鋭利な爪で容易く手錠を壊すと、フェンリルはそのまま振り上げた爪を思いっきり振り下ろし、耳障りな音を立てながら鉄格子を破壊した。そして、幾分か身体の大きさを調整させていつもよりも小柄な体躯になったフェンリルの背を撫でながら、牢を出てエルンストが幽閉されている牢の前に立つ。


「ほら、早く行けって」
「……うん」
「……馬鹿なことしたと思ってるけど、……お前が戻って来るきっかけになって、よかったと思った」


 お前がああ言ってくれて楽になった。
 その一言にアベルは何度も頷く。目頭が熱くなるも、騒がしい声が聞こえつつある。早く行かなければと促すようにフェンリルの鼻頭がアベルを突っつく。分かってるよ、と彼の頭を一撫でするとアベルは顔を上げてエルンストを見た。そして、「行って来るよ」とだけ口にすると、すぐにフェンリルの背に跨った。
 勢いよく駆け出すフェンリルはそのまま地上を目指して階段を駆け上がる。階段の上を見上げると、騒ぎを聞き付けたらしい兵士らがどうしてこんなところに狼がいるのかと狼狽していた。好機だとばかりにアベルは威嚇程度に力で攻撃魔法を放つ。頭上を掠める炎に兵士らは半歩引くも、さすがに攻撃魔法で腰を抜かすような兵士はおらず、寧ろ、止めてやるとばかりにそれぞれ剣を構えて階段を駆け下りて来る。
 狭い階段ではフェンリルの動きも制限されてしまう。かと言って、ここで兵士に怪我を負わせたとなると拙い。どうしたものかと考えつつも攻撃魔法を再度放とうとした矢先、アベルさえも耳を押えるようなフェンリルの咆哮が轟いた。狭い階段内ということもあり、壁に反響して幾重にも重なって聞こえる。牙を剥き出しにしたその咆哮にはさすがの兵士らも剣を取り落として耳を押え、しゃがみ込んでいた。今だ、とばかりにフェンリルは兵士らを押し退けて軍令部の地上階へと飛び出すと、そのまま窓を破って外に飛び出した。


「フェンリル、城に向かって。そこで僕を下ろしたら、お前は一度王都の外まで出て欲しいんだ」


 レオと共に残ることを決めはしたものの、彼がそれを了承してくれるかは分からない。説得に時間が掛かるかもしれない。だからこそ、自分は王都の外に逃げたのだと思わせ、時間を稼ぎたいのだ。フェンリルはその指示を了承すると、すぐに城に向かって駆け出した。何度かこれまでに侵入したこともあるため、バイルシュミット城の内部は知っている。レオがいる場所も検討は付いているため、アベルは城の中庭でフェンリルの背から下りると、彼の首に一度抱き付いて礼を言うと、そのまますぐに駆け出した。
 建物に侵入する間際、振り向くとフェンリルは音もなく壁を越えて行くところだった。それを見送りつつ、アベルは周囲を警戒しつつ城へと足を踏み入れた。夜が明ければ本隊は出兵する。しかし、内部は常と何ら変わらず、近衛兵団が夜を徹して警備に当たっていた。しかし、何処にどのように配置されているのかということをアベルは知り尽くしている。必要ないだろうけれど、と言われながらもカサンドラに覚え込まされた事柄が役に立つとは、と考えつつ、アベルは確実にレオの居室へと近付いていた。


「……っ、誰、」


 階段を上って影に身を潜めつつ足音や気配を殺して走り続け、アベルはレオの居室付近まで辿り着いた。が、さすがに居室ともなれば、その周辺には近衛兵もより多く配置されている。手に掛けることが可能であれば、侵入は容易だ。しかし、それをしないとなると、やはり難しくはなる。どのようにして居室のすぐ近くに控えている近衛兵を動かそうかと考え、アベルは自身の手首に付いたままだった壊した手錠の存在に気付いた。
 壊してしまえば後は手首から外すことは簡単だった。なるべく音を立てないように手首から取り外すと、ぼろりと掌の上で欠片が取れた。それを握り締めると、アベルはそれを自分が隠れている側とは反対側の廊下に向けて投げた。それと同時に足音を殺して駆け出し、耳触りな金属音に気付いた近衛兵が手錠を投げた方を向いている隙に首筋に手刀を叩きつける。
 そのまま急いで物影に兵士を引き摺りこみ、周囲を確認した後に何度か同じことを繰り返してレオの居室付近で警備に就いている近衛兵を全員気絶させると、アベルは周囲に注意しつつレオの居室の前に立った。何と言えばいいだろうかと考える。けれど、すぐには何も思いつかなかった。どんな顔をして会えばいいと言うのだろう――アベルは視線を伏せるも、いつまでもこの場に立ち尽くしているわけにもいかず、音を立てないように気を付けながら近衛兵のポケットから盗み出していた鍵を使って扉を開いた。


「……レオ、……レオ、起きて」


 中は暗かったが、すぐにレオを見つけることが出来た。意外なほどに質素なベッドの上に出来たシーツを被った山を揺さぶる。そして、暫く身体を揺さぶり続けると、「……んだよ、もうちょっと寝かせろよ」という掠れた声が聞こえて来た。一国の王が寝汚いとはどういうことだ、と思うも、元々、レオは寝汚かったなとアベルは微苦笑を浮かべる。
 そんなことを考えながらも身体を揺さぶり続けていると、とうとう観念したらしいレオが目を擦りながら身体を起こした。そして、「何だよ、トイレの付き添いか?」とよく分からないことを言い出す。寝惚けているのかと呆れた顔をしていると、徐々に暗闇に目が慣れてきたらしいレオは自分を起こしたアベルを見遣り、暫し目を瞬かせながら首を傾げる。


「……アベルか……何だよ、トイレか?」
「いや、一人で行けるから。というか、しっかりしてよ。寝惚けてないでさ」
「だってお前……何で此処に……オレの夢だから、」
「夢じゃないよ。僕は地下牢から抜け出して来たんだ。だから今、此処にいる」
「やんちゃだなーお前……は?え、……ええ!?」


 どうやら起こしているのが自分だったからこそ、夢だと勘違いして寝惚けていたらしい。アベルが抜け出して来たのだということを口にすると、へらへらと笑っていたレオだったが、ひんやりと冷たいアベルの手に触れるなり、目の前に確かに今アベルがいるのだということを理解したらしく、大きく目を見開く。どうやら、目が覚めたらしい。


「お前っ!この馬鹿、何でそんな……!」
「……此処に残ろうと思って」
「此処に残るって……でも、お前は……」
「やらなきゃいけないことがあるんだ」


 それはきっと、一方的な罪滅ぼしでしかないのだろう。それでも、自分の手でけじめを付けたいと思ったのだ。言いたいことも、言わなきゃいけないことも、伝えたいことも山ほどある。それなのに、言葉にならなかった。ちゃんとレオも納得するように黙っているのではなく言わなければならないことは分かっているのに、何も言えなかった。
 黙り込むアベルに対し、レオは少しばかり困ったように頭を掻いた後、溜息を一つ吐いたのに「お前も案外やんちゃするよな」と苦笑を浮かべる。そして、ベッドから立ち上がるとぽんぽんと軽くアベルの頭を叩いた。いつもならば触るなとばかりにその手を叩き落とすアベルだが、今回ばかりは何も言わずに、いつの間にか伏せてしまっていた視線を持ち上げてレオの顔を見る。


「残ってくれてありがとな。やり方はまあ、褒められたものじゃないけど……でもオレは、ここまで来てくれて嬉しかった」
「……うん」
「やっぱさ、何ていうか……緊張するというか、不安になるというかさ……別に人見知りじゃないけど、知らない奴ばっかし部屋に戻ってもいつも静かで……いつも、戻りたいって思ってたからさ」


 だから、お前が来てくれて嬉しかったし、どういう理由であれ残るって言ってくれて嬉しかった。
 照れたような、はにかんだ笑みを浮かべてレオは口にした。その笑みを前にアベルはきゅっと唇を噛んだ。ちゃんと話さなければならなかったのに、結局のところ、レオに甘えてしまう自分が情けなかった。


「司令官にはオレから話を付けておくから安心しろよ。つーか、お前、よくこの部屋まで来れたな、外に警備の近衛兵がいただろ?」
「あ、ああ、うん。ちょっと気絶させたから」
「はあ!?いやいや、お前、やんちゃし過ぎだろ」


 呆れたように溜息を吐いた後、レオは足早に近衛兵らの様子を見に居室を出た。その後に続きながら、アベルは物陰に隠した近衛兵らを引っ張り出すのを手伝う。「よくもまあ、気絶なんてさせられたよな。何したんだよ」とすっかりと呆れながらどうすればいいんだよ、こいつらと溜息を吐くレオに対し、素手で気絶させたのだと言うとあんぐりと口を開けて彼はアベルを見上げた。


「……間抜け面」
「んだと!?ああー……もういい、とにかく誰か人呼んでこいつらどうにかしてもらう。で、今頃きっと騒ぎになってるだろうから司令官にはオレが話を付ける。だから、お前はちょっともう寝てろ、話がややこしくなるから」
「でも、」
「いいから。……お前も色々と思うところがあるんだろうけど、お前の考えてることなんてもうオレは分かってるから」


 自分できっちりけじめ付ける気なんだろ、と言うレオにアベルは目を見開いた。そんな驚いた顔をする彼に対して、分かってるって言ったろ、とレオは笑った。そして、そのまま廊下に向けて「おーい、誰か来てくれー」と間の抜けた声で呼び掛けながらアベルの背を押して居室に放り込む。「ちょっと、」と慌ててアベルが言い募ろうとするも、それよりも先にいいから、とレオが言葉を重ねる。


「こっちだってすぐに出撃するんだ。お前にはいっぱい働いてもらうんだから寝とけって」
「……レオ」
「オレのベッド使っていいからな。なーんか落ち着かないんだよなー、もっとこう、硬いベッドの方が寝慣れてるからさ」


 はいはい、寝た寝た、とレオはそう言って軽くアベルの肩を押す。そしてひらひらと手を振りながら扉を閉めてしまった。扉を隔てた向こうでは、レオの声に応じて駆け寄って来た近衛兵らが倒れ込んでいる仲間を見るなり、「何事ですか?!」と慌てふためいた声を上げているのが聞こえて来る。「いや、それがさ」とレオはのらりくらりと適当な説明をし始め、それを扉越しに聞いていたアベルは冷や汗を浮かべる。少しやり過ぎただろうかとも思うも、かと言って、ここで自分が出て行けばそれこそ不審者として捕縛されてしまう。それでは牢に逆戻りだ。
 結局のところ、レオに任せるしかない。もう少し穏便なやり方にすればよかった、出撃してから逃げ出すべきだったと今更ながらに思うも後の祭りだ。面倒を掛けてしまったことをさすがにアベルも申し訳なく思いつつもとぼとぼとした足取りで先ほどまでレオが眠っていたベッドに腰掛ける。それはふかふかでとても高価なものであることが軽く座っただけでも分かった。


「……確かにこれは慣れないかも」


 その割にぐっすり寝たくせに、とアベルは眉を下げて笑いつつ、そのままごろりと横になった。兎にも角にも、レオと話すことは出来たし、彼にも受け入れてもらえた。そうなると、後の問題はゲアハルトと収容施設だけだ。前者はレオが話を付けてくれると言っているのだから、心苦しくはあるが、任せるしかない。それが最も穏便に片付く方法だとも思う。
 だからこそ、何としても自分の手でけじめを付けなければならないと思った。カインがいるかどうかは分からない。だが、彼を止める前に、まず自分がしたことの責任を取らなければならない。そうでなければ、ベルンシュタインの誰にも顔向けが出来ないのだ。裏切って、傷つけた自分を、それでも、今までと変わらぬ態度でアイリスらは受け入れてくれた。無論、全ての人がそうだったわけではない。だが、少なくとも自分を受け入れてくれた彼女らの為にも、自分に出来ることを果たしたいと思った。その上で、兄を止めなければ、戻ってきた意味がない。
 見慣れぬ天井を見上げていた隻眼を閉じると、瞼の裏にはまだ自分がベルンシュタインにいた時のことが浮かんだ。それほど長くこの国にいたわけではない。親しい人間が多かったわけでもない。それでも、思い出す日々はとても温かくて、何でもなかったその日々がとても優しい思い出となって自分の中に残っていることに気付いた。自分がこんなことを思うなんて、とアベルは唇を歪めて笑う。血と嘘と偽りに塗れた自分には似つかわしいと思うのに、それでも、こんな自分にもそんな時間を過ごすことが出来たのだと、それがとても、嬉しかったのだと残された瞳の端から涙が零れた。



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