開戦 - struggler -



 ヒッツェルブルグ帝国南西の小さな街は数日前に発令された避難命令に従い、蛻の殻となっていた。まだ日中であり、平時であれば街の人間らが表に出てそれぞれ痩せた田畑を耕す為に動いていただろう。その様子を自身が子どもの頃に住んでいた村の記憶と重ね合わせつつ、ブルーノは静まり返った街の中を歩いていた。
 カサンドラを探し出すべく、カインが放った蛇がその姿を見つけたのがこの街だった。無論、ブルーノがこの街に到着するよりも早く彼女が移動する可能性は高い。しかし、カサンドラが危険を冒しながらも帝国の地を踏んでいるということは、彼女が何処に向かおうとしているのかの凡その予想はつく。カサンドラはほぼ間違いなく帝都アイレンベルグを目指している――ならば、ブルーノも同様にこの村から改めて帝都を目指せば、最終的な目的地は分かっているのだから追い付けるはずだと考えていた。
 無論、この街から帝都に向かう道はいくつもある。なるべく人目につかない道を選ぶのであれば、森に入る可能性もあった。だが、少なくともこの街の周辺には森はない。そうなると、彼女は人目を避けることよりも、それ以上に最短距離を選んでいる可能性がある。現にカサンドラは隠れ家から逃亡した際もどうやら安全な道ではなく、直線距離を選んだらしく、ベルトラム山を越えたらしい。そのことを踏まえて考えると、この街から北西に真っ直ぐ――最短距離で帝都に向かうはずだという予測はついた。


「あとはあの馬鹿がまだこの街に残ってるのかどうか、か」


 あー何でおれは犬じゃなくて猫のキメラなんだ、とブルーノは脱力する。かと言って、カサンドラの私物のにおいを追う、というのもそれはそれで嫌だな、と顔を顰めた。それではただの変態だと溜息を吐きながら充てもなく歩いていると、不意にじとりと此方を見つめる視線に気付いた。カサンドラか、それともまだこの街に残っている人間がいたのか、とブルーノは視線を感じる方を振り向く。
 が、そこには人影は見当たらない。気のせいだろうかと思うも、目を凝らしてよくよく視線を感じた方を見つめると、物陰から此方を見つめる黄色い目が見えた。縦長の瞳孔を持つそれは暫しじっとブルーノを見つめると、ゆっくりと物陰から姿を現した。それは太い胴体を持ち、小型の動物ならば丸呑みしてしまいそうな大蛇だった。げっ、と一瞬、ブルーノは頬を引き攣らせるも、カインが連れている召喚獣の蛇に比べたら余程可愛らしい。そう思えるぐらいには、彼は蛇の存在には慣れていた――そうなるまでに痛い目には何度も遭ったのだが。


「何だ?案内でもしてくれるのか?」


 生憎、ブルーノは蛇には慣れていてもカインのようにその言葉や考えが分かるわけではない。大蛇はずるりずるりとゆっくりと身体を動かし始める。そして、立ち止まると鎌首を擡げてまるで付いて来いと言わんばかりにブルーノを見つめ、黄色い瞳を睥睨させる。その様子に暫し目を瞬かせるも、これといってカサンドラの手掛かりがあるわけではないブルーノは何か手掛かりをこの蛇が与えてくれるのではないかと微かな期待感を胸に再び動き出した大蛇の後に続いた。
 大蛇は身体をくねらせつつ進み続け、不意にある一軒の小さな宿の前で止まった。まさか宿に泊っているのか、とブルーノは何とも言えない気持ちになる。この数日、カサンドラを追い掛けて来ていた彼は野宿の繰り返しだった。無論、彼女もこの街に到着するまでは野宿をしていたのだろうが――その様子はまるで想像出来なかった。
 兎にも角にも、蛇がこの宿までブルーノを導いたということは、この宿にはカサンドラがいるのか、もしくは何らかの手掛かりがあると考えていいはずだ。ブルーノはちらりと足元の蛇に視線を向ける。此方を見上げて来る蛇が何を考えているのかはやはり分からない。それでも、ブルーノは口角を持ち上げて笑うと「案内ありがとな。お前はもうカインのところに戻れよ」と声を掛ける。通じているのかどうかは分からない。だが、蛇は黄色い瞳を数度瞬かせると、ずるりと身体を動かして物影へと戻って行った。
 それを見送ったブルーノは改めて宿を見渡す。人がいる気配はない。無銭飲食でもしてるのかあいつは、と半分呆れつつ、ブルーノは肩の力を抜くと扉を開けて宿へと踏み入った。


「カサンドラ……いるのか?」


 声を掛けたところで返事をするとも思えない。が、それでも何らかの反応があればと思ったブルーノは声を掛け続けながら一部屋一部屋、慎重に改めていく。余程慌てて避難したのか、どの部屋も整えられた形跡はなく、使ったままの状態だった。そんな中、角の部屋まで行き着いたブルーノはゆっくりと扉を開けて声を掛けた時、部屋の奥に設えられているベッドの上に山が出来ていることに気付いた。
 足音を殺して一歩を踏み出す――が、その瞬間にひゅんっと風を切る音が聞こえ、咄嗟にブルーノは「おわっ!?」と声を洩らしながらその場にしゃがみ込んだ。一瞬前まで立っていた自分の喉元目掛けて投擲されたナイフが扉に突き刺さり、微かに揺れている。危ねーなー、と呟きつつ、ベッドの方を向き直るもそれと同時に床に引き倒され、視界が回転する。


「っ……おいっ!」
「どうして貴方が此処にいるの……追手?そうなの?」
「いや、違う……ちょ、待て待て待て!ナイフを下ろせ!」


 馬乗りになってナイフを振り上げるカサンドラにブルーノは慌てる。追手ならば、声を掛けながら探し回ったりなどしない。それこそ、宿一軒程度ならば、火を放って様子を見た方が早いのだ。カサンドラが潜んでいるのならば、彼女はすぐに飛び出して来るだろう。いないのならば、それこそ宿が一軒、焼け落ちるだけの話だ。確認の方法など、これ以外にもいくらでもある。
 平時ならば、それぐらいのことは容易に彼女も気付いたはずだ。だが、此方を睨みつけるカサンドラに常の余裕は見受けられない。髪は乱れ、衣服も擦り切れている。無茶をしてこの地まで辿り着いたのだということは想像に難くなかった。恐らく、人の出払ったこの街で休息を取っていたのだろう。そして、改めて出立しようと考えていたところ、ブルーノが追い付いたと思われる。
 ナイフを下ろすように言っても、その言葉はカサンドラには届いていないらしい。振り上げたままの彼女にブルーノは諦めたように溜息を吐くと、そのまま両手を上げて降参のポーズを取り、身体から力を抜いた。何を言っても聞かないのなら、後は態度で示すしかない。これでもまだ通じなければ、それこそ殴ってでも止めなければならない。だけど、それは面倒だ、とぼんやりと考えていると、暫しの後にカサンドラはゆっくりと振り上げていたナイフを下ろした。


「……どうして来たのよ」
「カインが心配してる。呼び戻しに来たんだよ」


 ぴくり、とカサンドラの肩が震えた。乱れた赤紫の髪が顔を覆い隠しているため、表情を窺うことは出来ない。だが、微かに見え隠れする口元は真一文字に引き結ばれている。そんな彼女を見上げながらブルーノは返事を待つものの、暫しの後にカサンドラはふるふると首を横に振り、「戻るつもりなんてないわ」とぽつりと小さく呟いた。


「戻ったところで私はアウレールに殺されるだけよ」


 その言葉にああ、そういうことか、とブルーノは納得する。特殊部隊である鴉に属す者の中でもアウレールは特異な存在だった。カインやアベルのように禁術である召喚獣を扱うわけでもなく、カサンドラのように他国から寝返ったというわけでもない。況してや自分のようにキメラというわけでもない、優秀ではあるが、何処にでもいる腕の立つ兵士という立場の男。
 何かしら隠している能力でもあるのだろうかとばかりブルーノはこれまで考えていたのだが、何の事はない、ただの監視役だったというわけだ。召喚獣を扱うカインやアベルを、ベルンシュタインから寝返ったカサンドラを、キメラである自分を、裏切らないかどうかを見張り、不要となれば手に掛ける存在――それがアウレールに与えられた役目なのだろう。
 考えてもみれば、監視役が付けられていない方がおかしいのだ。裏切れば、相当な痛手を被ることは明らかな者ばかりを集めているのだ。それに対処出来るだけの監視役を用意しないはずがない。とは言っても、恐らく最優先で監視されていたのはカサンドラだろう。カインやアベルはそもそも裏切らないと踏まれていただろうし、猫とのキメラである自分は裏切ったところで脅威ではなく、そもそも、薬がなければ人型を保てないのだ。捨て置いてもいいと思われていることだろう。


「それは……まあ否定出来ないけど。そもそも、よく逃げ出せたな、お前」
「私が逃げ出した時点でアウレールが受けていた命令はあくまで監視。あの人はね、命令されなければ動かないのよ。自分の考えでは動かない。その代わり、命じられたことはそれこそ自分が死に瀕しようとも遂行するわ」


 だから、私は戻らないし、何があってもアウレールと顔を合わせるわけにはいかない。
 戻るつもりは一切ないのだということをカサンドラははっきりとした声音で口にした。アウレールは現在、追撃の命令を受けていないに過ぎず、遭遇すれば容赦なく剣を振り下ろして来るということだ。たとえ、カサンドラが手練であっても真っ向勝負の白兵戦となれば、聊か分が悪いのだ。


「せっかく来てくれたのに悪いけれど、一人で戻って頂戴」
「……お前一人で帝都まで行くなんて無理だ」


 やんわりと突き放すように口にしたカサンドラに対し、ブルーノは眉を寄せながら呟く。この小さな街から帝都まで馬を使っても早くて二日を要する。しかも、帝都に近付けば近付くだけ、危険に歩み寄って行くようなものなのだ。誰の協力もなく、たった一人で辿り着けるはずがない――ブルーノはそう口にするも、カサンドラは「もう時間がないのよ!」と声を荒げた。
 俯けていた顔を上げ、赤紫の髪の隙間から見え隠れする赤い瞳は、常のような自信に満ちた様ではなく、揺れていた。不安に押し潰されそうな、心細そうな目をしていた。


「ギルベルトの身体が腐り始めてる……早く蘇生させなきゃ、私がこれまでやって来たことが無意味に終わってしまう」
「……」
「そんなわけにはいかないのよ!私は……私は、自分の願いを叶える為に、家族も友人も国も何もかもを捨てて此処まで来た。今日まで生きてきたの!止めるわけにはいかない……投げ出すわけにはいかないの、尻尾を撒いて逃げるわけにはいかないのよ!」


 声を張り上げて叫び、手にしたままだったナイフを振り上げたカサンドラはそれを激情のままに床に振り下ろす。深々とナイフは床に突き刺さり、僅かにその刃がブルーノの衣服を裂いた。
 振り下ろされたナイフにブルーノはぎょっと目を見開くも、顔を俯けながら肩を震わせ、唇の隙間から荒い呼吸を零すカサンドラに僅かに顔を歪めた。吐き出されたその言葉は全て、自分に言い聞かせているように彼には聞こえたのだ。止めるわけにはいかない、投げ出すわけにはいかない、逃げるわけにはいかない――その言葉の裏に、もう止めたい、本当は逃げたいという叫びが隠れているように思えてならなかった。
 カサンドラはきっと、本当にギルベルトのことを愛していたのだろう。それが叶わぬ想いだとしても、とても好きだったのだということは話を断片的にしか聞いていないブルーノにも伝わっていた。けれど、彼女は間違ってしまった。ギルベルトのことを深く深く愛し過ぎてしまったがために、その大きすぎる想いに自分自身が呑まれてしまったのだ。それはきっと、彼女が誰よりも純粋過ぎたからなのだろう――ブルーノは唇を噛み締めるカサンドラを見上げながらぼんやりと考えていた。


「……分かった」
「……」
「戻って来いとももう言わないし、無理に引き摺ってでも連れ帰ったりはしない。……その代わり、おれがお前と一緒にいる」


 身体の力を抜いたまま、ブルーノは事も無げにそう口にした。しかし、当のカサンドラは意味が分からないとばかりに大きく見開き、馬鹿じゃないのかと言わんばかりに眦を吊り上げると「貴方は今すぐ帰りなさい、貴方には関係のないことよ」と早口に言う。だが、ブルーノは首を横に振った。


「薬だって十分過ぎる数を用意しておいたじゃない。貴方が私に付いて来る必要なんてない、すぐに見つからなかったと報告して陛下のところに戻りなさい」
「嫌だ。つーか、お前、確かに十分過ぎるほど薬は寄越して来たけどあれ何年分だよ。少なくともおれが天寿を全うするほどの量はなかったぞ」
「だ、からって……分かったわ、レシピをあげる。だからそれを持って早く、」
「レシピなんていらねーよ。お前が作れ」
「だから、」
「一緒にいるっつってんだろ」


 何が何でも帰らせようとするカサンドラを遮り、ブルーノは眉を寄せる。彼女が自分のことを思って戻るように言っているのだということは分かっている。そして、それはきっと正しいのだ。カサンドラと共に行くということは帝国に刃を向けることと同義だ。そのようなことになれば、どのような目に遭うかは分からない。ベルンシュタインが動き出している以上、敢えて追手を差し向けられることはないかもしれないが、攻撃対象とされることは間違いない。下手をすれば、田舎に残してきた家族らにも害が及ぶかもしれない。
 分かっているのか、と声を荒げながらそれらを口にするカサンドラを前にブルーノは苦笑を浮かべた。「それじゃあ、お前はおれに首を差し出せるのか?」と。戻るためにも何かしらの手土産は必要になる。カサンドラが同行するのであれば、手土産は彼女自身ということになるが、戻ることをカサンドラが拒んでいる以上、強引にでもその首を取らねばブルーノも帰るに帰れない。既にカサンドラの出奔が知れ渡っている以上、手ぶらなど許されるはずがない。


「……それは……」
「お前か、お前の首か。おれが帰るにはそのどっちかが必要なんだよ、お前だってそれぐらい分かるだろ」
「……」
「……でも、おれはどっちも要らねー。元々、お前を連れ戻せるなんて本気で思ってなかったからな」


 ならばどうして来たのかとカサンドラは声を荒げる。まるでその様子は泣き喚く幼子のようだと思いつつ、ブルーノは肩を竦めて見せた。これといった理由があったわけではない。カインを一人にすることも心配ではあったが、だが、それ以上にカサンドラの方が心配だったというだけのことだ。
 カインにはアベルがいる。アベルの出奔を手伝った自分が何かを言えた義理ではないが、それでもまだ、カインにはアベルがいる。そしてきっと、アベルはカインをどうにかして救いたいと考えているはずだ。だから、自分が然程心配する必要はないとブルーノは考えていた。後は兄弟の問題であり、本人たちでどうにかするしかない、と。
 だが、カサンドラは違う。彼女は此処で離れてしまえば、本当に独りになってしまう。それでいいのかと考えた時、どうしていいとは思えなかったのだ。それはきっと、追い掛ける前から思っていたことだ。もっと前から――彼女が一蓮托生だと言った時から、思っていたことなのかもしれない。


「お前が独りぼっちになるから」


 それが嫌だと思ったから――多分それが、正解だ。カインが心配しているからということもある。だが、きっと本当はそれ以上に、カサンドラが独りになるところなど、見たくはなかったからかもしれない。その理由に思い至ったブルーノは自嘲するように笑った。大した理由でもなく、ただのエゴの押しつけだ。カサンドラにとっては迷惑でしかないだろう。足手纏いと思われるに決まっている。
 けれど、口に出したその一言は紛れもない本心だった。何だかんだと面倒を言いつけられ、理不尽な扱いをされたことも多い。そもそも、同意もなしに身体を弄繰り回されて勝手にキメラになどされたのだ。彼女のことを、本当ならば憎むべきなのかもしれない。だが、どうにもそうすることは出来なかった。憎むほど、カサンドラのことを嫌いになれなかったのだ。


「おれだけでもお前の傍にいてやらねーと……お前、本当に独りぼっちになるだろ」
「私にはギルベルトがいるわ」
「でも死体だ」
「だから生き返らせるのよ!」
「そのためには黒の輝石が必要なんだろ」


 カサンドラは唇を噛み締める。ギルベルトを蘇生する為には他の何よりも黒の輝石が必要不可欠である。黒の輝石を使ってどのように蘇生させるか、そもそもどういう理論で成り立つのかもブルーノは分からない。ただ、キメラに造り変えられた自分自身は恐らく、ギルベルトの蘇生に関する研究の一貫だったのだろう。そして、たった一人の成功体でもある。
 それからどれだけ研究が進んだのかは知れない。そもそも、蘇生など本当に成功するかどうかも分からないし、何よりまず、黒の輝石を奪取することが出来るかどうかが怪しい。そのことを考えれば、手駒はあるに越したことはないはずだ。


「……貴方、弱いじゃない。駒はあるに越したことはないけれど、足手纏いなのよ」
「ああ、そうだな。確かにおれはお前より弱い。足手纏いにもなる。でも、いざとなったらお前一人ぐらい抱えて逃げられるし、それが無理でも盾ぐらいにはなってやれる」


 どうしてそこまでしてくれるのよ、と弱々しい声が聞こえ、ブルーノは苦笑を浮かべる。自分でも馬鹿なことを言っている自覚はあった。カサンドラの側に付いても自分には何の得もないのだ。強いて言えば、人型を維持する為に必要な薬が手に入ることぐらいだ。が、それもレシピさえ手に入れば、何も彼女でなければならないということではなくなる。
 本当に自分はどうしてしまったのだろうとも思う。けれど、これでいいのだと納得してしまっている自分がいるのだ。損得勘定ではなく、ただ、心のままにこうしたいと思ったことをしている――初めてのことだった。貧しい家に生まれ、生きていく為に、毎日食事がしたいが為に軍に入隊した。全ては自分の為だった。自分にとって損か得かばかりを考えてきた。けれど、それが少しずつ変わっていったのはきっと、彼女にとって自分の運命が捻じ曲げられたその時からだ。
 死に掛けていたところを実験体として拾われ、そして、どういう因果か自分は唯一のキメラの成功体として生き残った。鴉に迎えられた後は、あれやこれやと自分をキメラに造り変えたカサンドラにこき使われ、酷い目にもあった。それでも、鴉に迎えられた日から今日まで、人として生きていた時よりも満ち足りた時間を過ごしていたように思う。


「私は貴方を人から造り変えたのよ。酷いことをしたの。許されないことをしたの。傷つけることばかりをしてきたのに、何も貴方に与えられないのに、どうして……」
「……見返りなんてそもそも求めてねーよ。別にお前にどうこうして欲しいっていうのもない」
「……」
「言ったろ、一蓮托生だって」


 酷いことをされたことも人道的に見ても許されないことをされたことも事実だ。けれど、きっと彼女は信じてくれないだろうが、不思議と憎んではいないのだ。何より、与えられないとカサンドラは言っているが、そんなことはないのだとブルーノは思う。少なくとも、カインやアベル、そして、彼女と満ち足りた時間を過ごすことが出来た。たとえそれがどれだけ短い時間だったとしても、ブルーノにとってはかけがえのないものなのだ。
 そのことを思うと、すとんと心の中に落ちてくるものがあった。カサンドラを独りにしたくない理由――それは一蓮托生を約束したからではなく、ずっと独りでいた自分を掬い上げてくれた彼女を、独りになんてしたくないというとても、ささやかな想いからだ。納得してしまえば、これほどしっくりとくるものはなかった。


「……馬鹿じゃないの」
「そうだな。おれは馬鹿だよ。でも、カインに言ったんだ、お前のことは任せろって」
「勝手よ」
「いつだって自分勝手なお前にだけは言われたくねーよ」


 本当に、彼女は勝手なのだとブルーノは笑う。勝手に掬い上げておいて、勝手に周りで騒いでおいて、いざとなったら勝手に傍から離れていくのだ。そんな相手に勝手だなどとは言われたくない。ブルーノは投げ出していた腕をカサンドラに伸ばす。微かに震えた肩を軽く叩き、そのままぐしゃぐしゃに乱れている髪に指を通す。普段は美しく整えられていた髪が絡まり、あーあ、と彼は声を洩らした。


「お前も好き勝手してるからおれも好き勝手させてもらう。勝手にお前の傍にいる、決めた」


 ゆっくりとした手つきで髪を整えていると、ぐすりとカサンドラは鼻を鳴らした。彼女らしくない、子どもみたいな様子にブルーノは小さく噴き出す。笑うなとばかりに肩を叩かれ、そのあまりの痛さにブルーノは「手加減しろよ!」と声を上げる。しかし、何度も何度も手を振り上げて来るカサンドラに呆れたように溜息を吐くと、痛みに顔を顰めながらそれ以上は何も言わず、ただ、ゆっくりと髪を撫でつけ続ける。
 そして漸く顔が露になったところで、赤い瞳の端に浮かんだ涙に気付いた。ブルーノは苦笑を浮かべると、親指でそっとそれを拭う。けれど、拭っても拭っても次から次へと涙が零れていく。これを隠したくて叩いていたのだろうかと思うも、だとすればとんだガキっぽさだとブルーノは眉を下げて笑った。


「おれぐらいは最後まで一緒にいてやるよ。だから泣くなって」


 彼女はもしかしたら、誰かに止めて欲しかったのかもしれない。
 本当のところは分からない。だが、ブルーノはふとそう思った。ベルンシュタインにいた仲間に、かつての友人に、止めて欲しかったのかもしれない。けれど、退くに退けないところまで来てしまったからこそ、彼女はもう立ち止まれないのか――だが、それももうブルーノにとってはどうでもいいことだった。
 進むと決めたのだ。カサンドラはギルベルトを蘇生させると決めた。ならば、後は最後に辿り着く結末まで、傍にいることが自分のすべきことなのだとブルーノは頭の片隅で考えながら、よいしょと身体を起こす。そして、自分に未だに馬乗りになったままのカサンドラの頭を引き寄せて、「落ち着いたら飯食おうぜ。紅茶も淹れるし。まずは腹ごしらえだ」と声を掛ける。そのまま、頼りない薄い背中を軽く叩きながら、声を押し殺して泣き続ける彼女に追い付いてよかったとブルーノは微かな笑みを浮かべた。


 
 
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