開戦 - struggler -




「進捗状況はどうだ」
「後方支援部隊は既に準備が完了し、ヒルデガルト団長率いる第三騎士団が警護に就いています。索敵中の斥候が戻り次第、迂回ルートで出立が可能です」
「斥候が戻り次第、すぐに出立させろ。此方の動きを帝国軍が掴んだ様子は?」
「帝国軍に変化なし、気付いた様子はありません」
「そうか。第三と後方支援が安全圏まで離脱後、すぐに奇襲をかけ、叩き潰して挽回する。チャンスは一度だ、気付かれるなよ」


 夜明け前の暗闇の中、ゲアハルトは前線に立っていた。細かく指示を出しつつ、それぞれの騎士団を配置に付かせ、帝国軍には気付かれぬように宵闇に紛れて奇襲の準備を進めさせる。
 アイリスと話し終えた後、彼は後方支援のテントに向かった。そこには腕に黒い紐を巻きつけられた事切れた兵士らが寝かされていた。彼らは二度とベルンシュタインの地に戻ることは出来ない――敵国の地に埋葬されるのだ。彼らが命を落とした理由は、数え出したら限がない。運が悪かったと言うことも出来れば、力量不足だったとも言えるだろう。だが、ゲアハルトにしてみれば、特に今回の戦闘で彼らが命を落とした理由は自分にあると考えていた。
 全ては自分の采配ミスが原因だと――否、あれは采配などと呼べたものですらなかったと、彼は奥歯を噛み締める。自分は揺らいでいたのだ。いざ帝国の地に、母国の地に足を踏み入れたことで、帝国兵と改めて相見えることで、揺らいだのだ。もう慣れたと思っていたにも関わらず――本当は少しも、慣れてなどいなかったのだ。


『すまなかった』


 ゲアハルトは頭を下げた。これから敵国に埋葬される兵士らに向けて、謝罪の言葉を口にした。そのようなことをしたところで、彼らが生き返ることはない。死んだ者は生き返らない――それが自然の摂理だ。それでも、たとえ許されずとも謝らずにはいられなかった。
 自分が揺らがず、常と変わらぬ冷静さで指揮を執っていたのなら彼らは命を落とさなかったとは限らない。この日、命を落とすという運命にあったのかもしれない。たらればのことを考えたとしても、結局のところは目の前に広がる光景が目を逸らしてはならない現実なのだ。ならば、受け入れるしかないのだ。事実として受け入れて、彼らに誓うしかない。必ず悲願を成就すると。それが自分に出来る唯一の償いなのだと、自身の心に深く刻みつけた。


「司令官、予定通りに布陣が完了しました」
「左右に配置している団長らには十分に此方に帝国軍を引き付けるまで我慢するように念押ししておけ」


 次から次へと届く報告に指示を出しつつ、ゲアハルトは改めて周囲を見渡した。背後から残存兵に不意を突かれるような後顧の憂いを断つ為に今回の奇襲では徹底的に帝国軍を叩き潰す必要がある。そのため、まずは後方支援に第三騎士団を護衛に付け、戦場と成り得る地帯から離脱、大きく迂回させることで先に進ませる。とは言っても、後方支援の全てを先に行かせてしまうと、負傷兵の手当などが出来なくなる為、最低限の人数は残っている。
 そして、残りの兵力の大多数を半数ずつに分け、十分に本隊から離れて左右に展開させる。そして、残った兵力で構成した本隊で帝国軍に奇襲を仕掛け、十二分に懐に引き付けたところで左右に分かれて展開していた分隊が挟撃を仕掛けるという寸法だ。しかし、周囲に隠れられるような森があるわけではなく、剥き出しの岩の影に隠れるといっても多くの兵士の身を隠せるような大きな岩もない。そのため、十分に距離を置いて宵闇に紛れるしかなく、また、敢えて手薄にする本隊も左右に展開している分隊が挟撃するまで持ち堪える必要がある。
 だが、真っ向勝負をしたところで長期戦に持ち込まれれば今以上に不利になるのはベルンシュタインであり、勝機があるとすれば昼に優勢を味わい、帝国軍が余裕の雰囲気を醸し出している今、奇襲を掛ける絶好の機会と言えるのだ。たとえ戦況が厳しくなろうとも、この機会を逃すわけにはいかないのだ。


「迂回ルートを索敵していた斥候が戻ってきました。敵影なし、合流予定地点の街は司令官の読み通り、蛻の殻とのことでした」
「そうか。すぐに後方支援と第三を出立させろ。合流予定視点の街で可能な限りの物資の補給をした上で合流まで待機だ。万が一、状況が変わればすぐに伝令を送るとバルシュミーデ団長に伝えてくれ」
「了解しました!」


 駆けて行く兵士を見送っていると彼と入れ替わるように暗闇でも目立つ白いフードを被ったアイリスが杖を片手に歩み寄って来た。今回、アイリスは後方支援の中でも他の数名と共に本隊として残るように指示を出した。これまでの彼女の腕を買っての判断ではあるのだが、そこに他意がないとは言い切れず、そんな自身にゲアハルトは内心溜息を吐いた。
 それが自分の未だに捨て切れない甘さなのだとも思う。これではもう誰にも甘さを捨てろなどと注意出来ないなと思いつつ、「どうかされましたか?」と首を傾げているアイリスに何でもないと首を横に振った。甘さだろうが甘えだろうが、もう認めるしかないのだ。アイリスという支えが傍になければならない、そんな弱い人間なのだと。けれど、一度認めてしまえばそれは不思議と心の中にすとんと落ち着いた。自分は単純だなと、微苦笑を浮かべながらゲアハルトは紫色の瞳を瞬かせるアイリスを向き直った。


「アイリスこそ何か用があったんじゃないのか?」
「あ、はい。先ほど後方支援と第三騎士団が出立しました。……エルンストさんから伝言を言付かってきたんです」
「……エルンストから?」


 出兵して以来、エルンストとは一度も顔を会わせていない。今は後方支援と共に既に出立し、道中でも白の輝石の覚醒実験が継続されているはずだ。身体は大丈夫だろうかと実験を命じているのは自分だと分かりながらも気掛かりなことは多い。それが顔に出ていたらしく、アイリスは「お疲れのご様子ではありました」と視線を伏せながら言い添えた。


「すぐに石なんて覚醒させて戻るから踏ん張ってね、って仰ってました」
「戻るって、」
「此処に。司令官の、近くに」


 いつも近くにいた。へらへらと軽薄な笑みを浮かべながらも、いつだって支えてくれた親友だ。間違えそうになればさり気なく止めてくれた。甘さが捨てられない自分の分まで、冷徹になってくれた。かけがえのない存在だ。エルンストがこれまでいてくれたからこそ、自分は揺らがずにいられたのだということを改めて実感する。
 言葉を失うゲアハルトにアイリスは苦笑を浮かべながらも「エルンストさんがお戻りになるまではわたしが支えますね。役不足だとは思いますが」と何処か拗ねたように言う。そんな彼女にゲアハルトは手を伸ばすと、ぽん、と形のいい頭に手を乗せてそのままゆっくりと撫でた。


「求める役割があいつのとは違う。……というか、あいつは戻って来る気満々だが、俺が復帰の許可を出さないと戻れないって分かってるのか」
「そこのところをしっかりとお願いしておくように頼まれました。なので、お願いします、司令官」
「アイリスを使うな、あの馬鹿」


 呆れた、とばかりにゲアハルトは溜息を吐く。しかし、エルンストらしいとも思った。彼らしい気遣いだと。そしてその気遣いが、嬉しかった。自分は思っていたよりもずっと恵まれているのだということを実感する。支えようとしてくれる者たちがいることが、自分のことを信じてくれる者たちがいることが、嬉しかった。まだ必要とされているのだということを実感し、その期待に応えたいと思う。


「そろそろ配置に付こう。後方支援が安全圏まで離脱したらすぐに作戦行動開始だ」
「了解です。……ご武運を、司令官」
「ああ、アイリスも」


 表情を引き締め、彼女は敬礼するとすぐに踵を返して走り出した。その背中は以前にも増して頼もしく感じられる。その成長が嬉しくもあり、少しだけ寂しくもある。だが、いつまでも弱いままでいるよりも成長して強くなってくれる方がずっといい。アイリスの背中が見えなくなるまで見送ると、ゲアハルトは表情を引き締める。
 此処で負けるわけにはいかないのだ。たとえ相手が帝国軍であろうと、この地が母国であろうと、そのようなことを気に留めている場合ではない。ヴィルヘルムを止め、黒の輝石を消滅させること――それが悲願だ。その為だけに今まで生きてきたのだ。それを此処まで来て、迷うわけにも捨てるわけにもいかない――ゲアハルトは決意を新たにすると、宵闇の中で奇襲を仕掛ける合図となる伝令を待った。









「あいつらが動き出した。急ぐぞ、カサンドラ」


 木陰に身を潜めて息を殺していたカサンドラは背後から聞こえたブルーノの声に小さく安堵の息を吐きながら振り向いた。そこには、丁度黒猫の姿から変化を解いたばかりの彼が衣服の裾を引っ張って整えているところだった。出会った当初は今のように上手く変化することが出来ず、寧ろ、身体を変化させる度に身体に不調を来していたことを思い出す。
 最近ではカサンドラが作った薬を飲めば平気らしく、此処まで至る道中も幾度となくブルーノが索敵の為に猫に姿を変えている。今も周囲の様子を探る為に変化していたのだ。それもこれも運悪く前方に帝国軍、後方にベルンシュタイン本隊という両軍の中間地点に居合わせてしまったからだ。中間地点とは言っても戦場のど真ん中というわけではない。幾分も離れた木立の中ではあるものの、彼らがこの木立をめくらましに使い、相手の背後を突こうとするかもしれない。そうなると厄介な状況になる。
 いくらカサンドラやブルーノの腕が立つと言っても限度がある。此方は二人、多勢に無勢だ。今後の為にも出来るだけ事を構えずにやり過ごしたい。下手に帝国軍の兵士を手に掛ければ、その手口からカサンドラやブルーノだと勘付かれる可能性がある。勘付かれてしまえば、どのルートを使って接近する気であるのかということも見破られかねない。また、ベルンシュタインの兵士を手に掛けるわけにもいかない。こちらは手口から勘付かれることはないが、彼らが攻め込んで来ているからこそ、カサンドラらも動きやすいのだ。彼らを無暗に手に掛け、数を減らすようなことは出来るだけ避けたい。


「地下道って本当にこの近くに出入り口があるのか?」
「ちゃんと出入り口じゃないわ。いくつかある抜け穴のうちの一つ……昔、口を割らせた出奔兵から聞いて確認に来たことがあるのよ」


 カサンドラは抱き抱えていた布に包まれた人型のモノ――ギルベルトの身体を魔法で浮かせると周囲を警戒しつつ歩き出す。カサンドラが先を歩き、その後にブルーノが続く。木立の奥へと進んでいくにつれて、周囲からは怒声や剣戟の音が聞こえて来る。どうやらベルンシュタインが動きを見せ、慌てて帝国軍が動き出したらしい。
 その様子からも戦闘中の帝国兵らはあくまで小手調べのつもりで派兵されたことが窺える。指揮官もゲアハルトを一度は退けたことで調子に乗っていたのだろう。勝って兜の緒を締めよ、という言葉を知らないのだろうかと思いつつ、カサンドラは凍える身体を抱き締める。帝都に近付くにつれて気温はぐんと下がっていくように思えてならない。厚手のコートを着込んではいるものの、それでも元々はベルンシュタインの生まれであるカサンドラにしてみれば、帝国の気候は毎年辛いものがあった。


「大丈夫か?」
「……平気よ。それより、周囲に気を配って。帝国軍の応援が来るかもしれない」


 背後から掛かるブルーノの心配げな声を撥ね退けるようにカサンドラは早口に言う。言葉を発する度に唇からは白い息が零れる。雪でも降るのではないとさえ思える寒さだ。地下道に入れば、まだ寒さはマシだろうかと考えながら彼女はたった一度だけ見に来た当時のことを思い返し、その記憶を辿りながら足を動かし続ける。
 そうして歩き続けるうちに夜が明け、気付けば戦場から聞こえてきていた喧騒も届かなくなっていた。周囲の景色も変わり、木立から針葉樹の森へと変わっていた。夜が明けても薄暗い森の中を歩き続け、足も重たくなってきた頃――カサンドラは漸く足を止めた。「着いたのか?」というブルーノに返事をする代わりに前方の岩場の割れ目を指差す。
 本来ならば最短ルートで帝都アイレンベルグに向かうつもりだったものの、恐らく帝都の門は全て下ろされているはずだ。周囲の街の人間の避難も完了していることを考えると、避難民に紛れて帝都に紛れ込むには到着が遅かった。ならば、帝都から張り巡らされている地下道から潜入するしか方法はないのだが、カサンドラやブルーノが普段使うような出入り口は全て封鎖、もしくは見張りが付けられている可能性が高い。
 既に離反していることがヴィルヘルムには気付かれている頃合いであり、彼が見つけ次第抹殺するように指示を出しているはずだ。そう易々とやられるつもりはないものの、かと言って、敢えて敵陣に突っ込むほど耄碌しているわけでもない。そのため、多少大回りになり、時間は掛かるものの、なるべく見つかり難いルートを選ぶこととなり、カサンドラは以前に一度だけ訪れたことのある地下道の抜け道を思い出したのだ。


「先に中を見て来る。お前は此処にいろよ」


 それだけ言うと、ブルーノは一瞬の後に姿を変えると、身軽な様子で岩場の割れ目へと姿を消した。それを見送り、カサンドラは言われた通りに木々の影に隠れた。周囲には人の気配はない。だが、何処に何が潜んでいるかなど分からないのだ。この地下道さえ使えれば、帝都への潜入は決して難しいことではない。飛び出したはいいものの、カサンドラ自身もまさか本当に帝都まで辿り着くことが出来るなどとは思っていなかったのだ。
 限りなく低い可能性だと思っていた。きっとそれまでに追手に処分されるだろうとばかり思っていた。ブルーノが来た時も、彼が追手だとばかり思った。一緒にいると言ってくれてからも心の何処かで未だに疑っている自分がいる。不意を突いたとしても、ブルーノの力量では自身を殺すことは出来ない――だから、帝国軍に引き渡すつもりではないのかとも、思っている。
 けれど、それらの可能性を考える度に脳裏に蘇るのだ。おれぐらいは最後まで一緒にいてやるよ――そう言った彼の言葉が。嘘ではないのかもしれない。本当にブルーノは、一緒にいてくれるつもりなのかもしれない。その言葉が真実だと、縋りたくなってしまう。だが、それと同時に自分はそんな弱い人間ではないのだと、心の中でもう一人の自分が叫ぶのだ。他の誰も信用なんて出来ないのだと。


「戻ったぞ。……おい、カサンドラ?どうした?」


 いつの間にか戻って来ていたブルーノが目の前に膝をついていた顔を覗き込んで来ていた。木の根元に座り込んでしまっていたらしく、カサンドラはばつが悪い顔になりながらも何でもないわとぼそりと呟くと、木の幹に背を預けながらずるずると立ち上がった。普段ならば服が傷む、とまずやらない行動だったが、さすがに足元が悪い森の中を何時間も歩き続け、尚且つ、緊張状態がずっと続いていることを考えれば、さすがに疲れてくる。
 しかし、休んでいるわけにもいかない。カサンドラは再びギルベルトの遺体を浮かせつつ「中はどうだったの?」とブルーノに問い掛ける。彼の答えは明確で誰もいなかったということだった。それもそうだろう。だからこそ、この抜け道を選んだのだから。此処まで見張りの兵士がいたとなると、ますます帝都への潜入は難しくなる。


「兎に角、中に入ろうぜ。外にいるよりもマシだ」


 それだけ言うとブルーノは周囲を改めて見渡した後、岩場の割れ目へと足を踏み入れた。割れ目は人一人が漸く通れるほどのもので決して大きくない。先に入ったブルーノに続いて足を踏み入れたカサンドラは割れ目を通り抜けると、ゆっくりと慎重に魔力を操作しながらギルベルトの遺体を抜け道へと持ち込んだ。
 抜け道は薄暗く、唯一の光源は出入り口である割れ目から差し込む僅かな光だけだ。カサンドラは掌に小さな炎を灯すと、慎重に歩き出す。ブルーノが言うように人の気配はなかった。だが、罠かもしれない――その考えが、どうしても彼女の歩みを遅くらせる。しかし、時間を掛けている余裕はないのだ。今は兎に角、急がなければならないのだ。


「この抜け道ってどこまで続いてるんだ?」
「帝都の兵士練成所の近くまで。元々、そこから逃げ出そうとした集団が造ったのよ」
「マジかよ……」


 知らなかった、と口にしつつも視線を伏せるブルーノは何か思うところがあるらしい。兵士練成所はその名の通り、帝国兵の練成の為の施設であり、一般的に帝国軍本隊に属する兵士が生活する場でもある。恐らくはブルーノも生活していたことがあるのだろう。カサンドラもそれほど詳しくはないものの、練成場での鍛錬は極めて厳しいものだという。どの程度のことをしているのかは知れないが、その当時のことを思い出しているのだろうと考える。


「でもこの抜け道の出口は封じられてるからどうにか抉じ開ける必要があるわ」
「封じられてるってことは丁度いいだろ。まさかそれを抉じ開けるとは思ってないだろうし、見張りなんて置かれてないはずだろ?」
「恐らくはね。……それに、外よりはマシだけれど、此処も寒いもの。……ギルベルトを置いて行くには丁度いいわ」


 これ以上、ギルベルトの遺体を持ち運ぶことは出来ない。出来ることなら黒の輝石の研究施設まで運び込んでしまいたいが、あまりにも目立ち過ぎる。カサンドラの目的はあくまでもギルベルトの蘇生ではあるが、それ以前に彼の身体を傷つけられるわけにはいかないのだ。何より浮かせ続ければそれだけ魔力を消費することになる。魔法以外の戦闘手段がないわけではないが、やはり慣れ親しんだ魔法を駆使する方がいい。
 ギルベルトを置いて行くという判断を彼女がしたことが意外だったらしく、ブルーノは至極驚いている様子だった。それぐらいの判断は出来るわよ、とカサンドラは彼の驚き具合に柳眉を寄せた。出来ることならより安全な場所に安置しておきたいところだが、贅沢なことは言っていられない。帝都に一歩足を踏み入れた瞬間、安全な場所など何処にもないのだ。この抜け道を出たら、後はもう走り続けるしかない。
 そのまましばらく無言で歩き続けていくうちに緩やかな上り坂になっていることに気付く。二人分の足音以外は何も聞こえなかったが、上り坂を上っているのだということを思うと少しばかり息苦しさが紛れる。これで下り坂であれば、本当にこの先が帝都なのだろうかと不安になっていたことだろう。辿り着くのは地獄なのではないかと――そう考えている自分に気付いたカサンドラは唇を歪めて嗤った。
 今更、天国に行けるなどとは思っていない。そもそも、天国も地獄も在りはしないと彼女は考えている。だが、仮に在るとすれば、自分は間違いなく地獄に叩きつけられる人間だ。許されないことばかりして来た。そして、これから行おうとしていることは最も許されざる行為だ。神がもしもいるのなら、怒り狂うであろう行為――けれど、それこそがカサンドラの悲願だった。


「……此処が行き止まり」
「さすがに入口付近は舗装されてんのか……あ、外が少しだけ見えるな」


 それから更に歩き続け、漸く行き止まりが見えた。そこは入口ということもあってか崩れないように石で壁が固められている。カサンドラは入口付近には近づこうとはせず、少し離れたところにゆっくりとギルベルトの遺体を下ろした。その間に様子を伺うべく気配を殺したブルーノが興味深々といった様子で入口付近を探っている。
 抜け道への入口は岩で封じられた粗末な対応だった。資材がないわけではないだろうが、もしかしたら誰かが再び使用する為に簡易なものに変えたのかもしれない。この抜け道を知っている者は決して多くはないはずであり、そのことを思うとこの場にギルベルトを置いていっても大丈夫だろうかという不安が過る。
 しかし、共に行くわけにはいかない。カサンドラは顔を歪めると、「夜まで待とうぜ。さすがに今出て行くのは迂闊過ぎる」という戻って来たブルーノの提案に「そうね」と言いつつ、顔を逸らした。そのまま座り込むと、今更ながらに身体全体が押し潰されるような重圧感を伴った疲労に襲われる。
 カサンドラは深く息を吐き出すと、すぐ隣に安置しているギルベルトへと手を伸ばした。乾燥した布の感触しかしない。たどたどしくそれに触れていると、「……なあ」と唐突にブルーノの声が聞こえた。


「……何よ」


 少し離れたところに座り込んだブルーノも疲れた様子だった。無理もないだろう。殆どずっと歩き続け、時折、休憩を取れていたカサンドラとは違い、彼は索敵の為に猫に姿を変えて動き回っていたのだ。これで疲れないはずがない。思えばずっと、ブルーノは気遣ってくれていたように思う。どうしてそこまでしてくれるのかと、カサンドラはそのことが解せなかった。


「せっかく此処まで来たんだ。お前は絶対、自分の願いを叶えろよ」
「……当たり前じゃない」
「ああ。何があっても、絶対だぞ」
「……」


 何があっても絶対に――その言葉に、今更何をそんな当たり前のことを、と思う。だが、口には出来なかった。何があっても絶対に自分の願いを叶える。それはカサンドラにとっては息をするように至極当然のことだった。そのためだけにベルンシュタインを裏切り、帝国に寝返ったのだ。それも全て黒の輝石を用いてギルベルトを蘇生する為だ。
 それだけが願いだった。それ以外に願いなどない。けれど、時々思うのだ。蘇生出来たとして、ギルベルトは自分を選んでくれるのだろうかと――そして、その答えもカサンドラは知っていた。自分は決して選ばれることはないのだということを、分かっていた。それでも、もしかしたらと願ってしまうのだ。ありもしない希望に縋ってしまう。そんな自分がどうしようもなく愚かしく、救いようがないと彼女は口の端を歪めて自嘲した。
 それでも、止まることは出来ない。もう引っ込みは付かないのだ。誰かに止められて諦めるのなら既に断念している。それでもこうして帝都まで来たのは、もう止まることは出来ないからだ。成功しようと失敗しようと、どちらにしても、ギルベルトを蘇生するという行為を成立させるまでは止まらない――そんな自分が滑稽だった。


「……これはおれの考えだけどさ」
「……」
「他人がどう言おうが、思おうがそんなことはどうでもいい。正しいか間違ってるかなんて関係ねーんだよ」
「……」
「そいつを生き返らせたいっていうのがお前の心の底からの願いなら、他人の言葉も目も気にする必要なんてねーって」


 掛けられたその言葉にカサンドラは目を瞠った。今まで誰一人として彼のようなことを言う者はいなかったのだ。否、いなくて当然だ。どう考えても許されざることをしようとしているのはカサンドラであり、それを擁護する者などいるはずがない――けれど、ブルーノは平然とした様子で肯定の言葉を口にした。


「何で……」
「おれに倫理観を求めるなよ。もう人とは言い切れないモノなんだから」
「……」
「それにさ、言ったろ。おれはお前の味方になるって」


 だから、他の誰がお前のことを否定しても、おれはお前を肯定する。
 その言葉にカサンドラは唇を噛んだ。どうしてブルーノがそこまで自分のことを気に掛けてくれるのかが分からないのだ。もし本心から気に掛けてくれているのだとしたら、どうしようもないほど心苦しくなる。自分が彼にしたことを忘れているのだろうかとさえ疑いたくなるも、そういうわけではないことはこれまでの行動を見ていれば分かる。だからこそ、理解出来なかった。
 自分がブルーノに一体何をしたのか――それを理解しているからこそ、真っ直ぐに向けられる視線に痛みを感じ、心が軋む。自分は優しくされるような、気遣ってもらえるような人間ではないと心底理解しているからこそ、堪らずカサンドラは「私が貴方にしたことを忘れたわけではないのでしょう!?」と押し殺した声を荒げた。


「私は貴方の人生をめちゃくちゃにしたわ!薬漬けにしたのよ!?分かってるの?」


 ブルーノを実験台として施した実験は一応は成功した。だが、実際にはカサンドラが生成する薬を飲み続けなければ人型の姿を保つことが出来ないという弊害が彼の身体には残っているのだ。つまり、ブルーノが人の身体のまま生き続ける為にはカサンドラの薬が必要不可欠であり、彼女が死ねば同様に彼もいずれは人の姿を保つことが出来ず、猫の姿となってこの世を彷徨うことになる。
 そんな身体にしたのも、そんなリスクを背負わせたのも、全てカサンドラなのだ。それにも関わらず、どうしてそんな自分の味方になるなどと言えるのか――カサンドラはブルーノに詰め寄り、目を剥きながら問い質す。


「おれだって馬鹿じゃない。それぐらいのことは分かってる」
「だったら、」
「それでもおれがお前に助けられたってことに代わりねーんだよ」
「……助けたことなんて、」
「ある。……確かにおれはお前の実験の所為で散々な目に遭ってるし、薬がなきゃ身体を保てねーよ。でも、それでも、お前はおれの命の恩人なんだよ」


 そう言うと、ブルーノは自身の首に巻き付けていたマフラーを解き始める。そして、ぐいっと自身の首元を広げた。そこには痛々しい大きな傷跡が残っている。一目見ても致命傷だと分かる太刀傷だった。ブルーノはその傷痕を押えながら、「これを負って瀕死だったおれを拾ったのはおまえだ」と視線を伏せながら口にする。
 その当時のことを、カサンドラはあまりよく覚えていない。ただ、実験台を求めてまだ生きている兵士を戦場から拾っていた際にブルーノと出会ったのだという事実を漠然と覚えているに過ぎないのだ。けれど、彼にとってはそれはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際の記憶だ。強烈に脳裏にこべり付いていても何らおかしな話ではない。だが、その記憶の温度差にカサンドラはゆるゆるとその場に腰を落とす。


「おれはお前のお陰でただの使い捨ての兵卒から抜け出せた。そのことを感謝してるんだ」
「……」
「お前にはそんなつもりはなかっただろうし、ただの実験のつもりだったことも知ってる。……けど、お前のお陰でおれの人生は変わった。客観的に見ればおれはお前に人生をめちゃぐちゃにされたんだろうけど、おれにしてみれば変えてもらったというか、そっちの方がしっくりする」
「……違いが分からないわ」
「満足してるってことだ」


 マフラーを結び直しながらブルーノは事も無げに言う。満足している――彼が何気なく口にしたその言葉を、カサンドラはすぐには受け止め切れなかった。否定され、拒絶され、責められ、批難されることの方が慣れている。だからこそ、ブルーノが口にする数々の肯定や感謝の言葉が、そのまま真っ直ぐに受け止められないのだ。


「おれはさ、鴉が好きだった」
「……」
「下っ端だから雑用ばっか押し付けられるし、お前もカインも我儘だし、アウレールは訳分かんねーし、無愛想な奴だったけど……でも、居心地は悪くなかった。正直、楽しいと思うことの方が多かった」
「……」
「お前がいて、カインがいて、アウレールが遠巻きにそれを見てて、おれが文句言いながら飯の用意する……そんな他愛無い日常が好きだった」


 結局、バラけちまったけどそれでもあそこは確かにおれの居場所だった。
 壁に凭れながら話し続けるブルーノの声を聞きながら、カサンドラは口を噤んでいた。自分は鴉に属する仲間をどう思っていたのだろう――今更ながらのことを考えつつ、「だからさ、」と微苦笑混じりにブルーノの言葉に耳を傾ける。


「カインもアベルもどうにか仲直り出来ればいいって思ってるし、アウレールも……まあ、無理だろうけど陛下の使い走りなんて辞めればいいと思ってるし……お前の願いが叶えばいいって、そう思ってる」
「……」
「おれはお前らのこと、嫌いになれねーんだ」
「……っ」


 照れたように笑いながら頬を掻くブルーノを見ていると、心の底から湧き上がってくるものがあった。言いたいことが山ほどあった。けれど、どれも言葉にはならず、代わりに漏れそうになるのは嗚咽だ。カサンドラは唇を噛み締めて押し殺し、じわりと浮かんだ涙を隠すように顔を俯けながら昂った気持ちをぶつけるように碌に力も入っていない軽く握った拳でブルーノを何度も叩いた。
 今になってどうしてそんなことを言うのか、と。本当に大切にしている仲間のことを想うような口振りで――否、自分を蔑ろにしていた者たちのことを嫌いにならずに、想っていられるのか、と言いたかった。
 けれど、分かっていたのだ。そのようなことをわざわざ聞かずとも、自分だって心の何処かでそう僅かながらでも思っていたのだから。ただの利害関係で集められた集団ではなく、もしも仲間と呼べるモノになれたならと。だが、それももう叶わないのだ。バラバラになってしまった。楽しいとそう思っていた時間が再び訪れることはもうない。それは自分が出奔した所為か――それとも、アベルが寝返った為か。そのどちらの為にか。
 理由はいくつだってあるだろう。ただ一つ、確実に言えることはブルーノの願いは叶わないということだ。そのことがどうしようもなく心に重く圧し掛かった。彼は自分の悲願が成就することを願ってくれている。けれど、ブルーノの願いは叶わない。叶えることは出来ない。その願いを壊したのは、他の誰でもなく自分だ。原因でなかったとしても、要因ではあるのだ。その事実が、深く胸に突き刺さった。 




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